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【書評11】


飯田耕二郎『移民の魁傑・星名謙一郎の生涯 ハワイ・テキサス・ブラジル』

A5版、320頁、本体3,800円(税別)

不二出版、2017年発行

ISBN978-4-8350-8061-1


移民の魁傑・星名謙一郎の生涯
▲『移民の魁傑・星名謙一郎の生涯
 ハワイ・テキサス・ブラジル』

 星名謙一郎(1866~1926)は、日本人移民の草創期に、ハワイ・テキサス・ブラジルという三つの地域をまたいで先駆的な役割を果たしたが、現在よく知られているとは言えない。…彼ほど行動範囲の広い日本人は恐らくこれまでになく、これからも出てこないのではなかろうか。しかしそのスケールが大きすぎたが故に、彼の全貌を捉えにくくし、これまでほとんど知られざる人物にしてしまったのかもしれない(295頁)。
 本書は星名が発行したブラジル初の邦字紙「週刊南米」の紹介や、彼に関する雑誌記事、地図や写真も多数収録した初の評伝である。そして本書の特徴は、当時の現地発行の新聞・雑誌記事を、詳細に分析しそれらを「一次資料として活用」した著者の忍耐強い研究手法にも見られる。

 著者はこのような研究手法を用いた理由として、…移民史に関する資料や書籍は時代を経るにつれ、誤った記述が増えることはよく知られたことである(322頁)とし、従来の移民史研究の陥りやすい欠点を指摘している。
 そしてそんな誤った記述を増やさないためにも、研究方法には「一次資料を見ることの大切さ」を重要視しなければならない…(322頁)。また、…ある出来事が起こった直近の情報と考えられる新聞記事をできるだけ多く活用したことである。星名に関する記事を見ていくなかで、彼を取り巻く多士済々の人物が登場し、さまざまな人間関係が読み取れて非常に面白かった…(322頁)としている。まさに移民研究の醍醐味はここにある。

 とは言え著者の研究への執念には敬服させられる。…星名謙一郎のことを調べようと思い立ってもう40年以上になる。これまでの人生の半分以上が経過しその間、絶えず彼のことが気になっていた。大げさに言うと研究を続ける中で支柱になっていた。それまで研究をしていく上でモヤモヤしていたものが、彼を調べることによって急に晴れたように周りのものがいろいろ見え始め、また調べているうちに研究仲間が増えていった(321頁)。…星名謙一郎という人物の生涯を描くことにより、ハワイ・テキサス・ブラジルにおける草創期の日本移民社会を明らかにできないかと考えるようになった(321頁)。長期にわたる忍耐強い資料収集と、現地調査への著者の情熱が本書を完成させたといえる。

 本書の章構成は以下の通りである。
第1章:祖先と幼少の頃
第2章:ハワイ時代前期-キリスト教伝道の頃-
第3章:ハワイ時代中期-新聞発行・税関官吏・コーヒー農場主の頃-
第4章:ハワイ時代後期-ワイアケア耕地監督・新婚の頃-
第5章:テキサス時代と一時帰国
第6章:ブラジル時代前期
第7章:ブラジル時代後期
第8章:星名の最期とその後
資料(いずれも学校法人日本力行会所蔵)
『農業のブラジル』1927年2月号(農業通信社)
『農業のブラジル』1927年 5月号(農業通信社)
『海外』第59号(1932年1月、海外社)
『海外』第60号(1932年2月、海外社)
あとがき

 第1章では、伊予吉田(愛媛県宇和島市吉田町)で誕生した謙一郎を、星名家の家系図(大乗寺の過去帳などから著者作成)を中心に、その生い立ちをまとめている。14歳の時「第2回勧業博覧会視察団(1881年・於:東京上野公園)」の一員として上京した写真(7頁)がある。当時来日中のハワイ国王カラカウアもこの博覧会を見学していることから、謙一郎も「ハワイを意識した」のかもしれないと筆者は推測している。第1章では、伊予吉田(愛媛県宇和島市吉田町)で誕生した謙一郎を、星名家の家系図(大乗寺の過去帳などから著者作成)を中心に、その生い立ちをまとめている。14歳の時「第2回勧業博覧会視察団(1881年・於:東京上野公園)」の一員として上京した写真(7頁)がある。当時来日中のハワイ国王カラカウアもこの博覧会を見学していることから、謙一郎も「ハワイを意識した」のかもしれないと筆者は推測している。
 また、宇和島の若者が同志社(新島襄)を訪問するエピソードが紹介されている。上京して1883年東京英和学校(現在の青山学院)に入学。語学を習得し熱心なキリスト教徒であった。卒業後上海にいたという記録もあるが詳細は不明。

 第2~4章のハワイ時代では、1891年ハワイ王国に渡り、ワイアケア耕地でサトウキビ栽培に従事した。労働者の待遇について耕主と対立し、耕地を追われる。牧師の岡部次郎に見いだされて伝道師として雇われ、岡部の帰国中ヒロ管区を監督した。1891年オーラアに土地を借りコーヒー栽培を始めた。
 1895年岡部次郎らとともに「布哇新聞」を引き継いだ。星名が移民先で新聞発行に関係したのはこの時期からである。その後、「やまと新聞」「日布時事」などにも関わっている。ハワイにおけるコーヒー栽培や日系人新聞・雑誌発行の経験は、後日ブラジルで大いに生かされることになる。

 第5章テキサス時代:明治期のテキサス州には日本から「テキサス大地主」を夢見た資本家が盛んに進出した(129頁)。1904年長女の死亡を機会に心機一転、元同志社社長西原清東を頼ってテキサスに渡り大規模な水田式米作経営に関わる。しかしながら土壌環境が稲作に適さず事業は大失敗となる。愛媛松山の妻の父が病気のこともあって、全財産を処分し日本へ帰国する。「…資産はいつでも造れるが、親の顔は二度と見られない…(134頁)」という彼の人情がここには存在する。

 第6~8章ブラジル時代と最期:…やむなく日本へ帰国したが、狭い日本にじっとしておれなくなった謙一郎は、今度は南米開拓を思い立ち、妻子を残して1909年単身渡航した(135頁)。当初ブラジルでも水田式米作を試みたが失敗する。いろんな職業に就いた後、1916年初頭に雑誌風の謄写版新聞「週刊南米」を発行した。これはブラジルと言うより南米初の「日本語の言論機関誌」であった(143頁)。この「週刊南米」は以後150号も続き、ブラジル日本人移民に明るさを与えたというだけでなく、社会意識を芽生えさせた点でも非常に重要な意義を持つと思われる(151頁)。また同じ1916年には野球クラブブラジル日本人青年会を創設し、監督も務めた。
 新聞発行で成功した後、サンパウロ州のヴァイベン殖民地(195頁地図)とブレジョン殖民地(196頁地図)の広大な原野の開墾と殖民経営に取り組み、日本人コロノ(契約農家)に低価格で売り出した。コーヒー栽培など農業だけではなく、小学校建設にも尽力した。そして1929年12月土地問題で対立のあった元使用人に射殺された(満60歳)。

 あとがきには、…彼が残した遺産はとてつもなく大きい。彼を倣って日本から来た者、彼の新聞を読んで世の中の情勢を知り得た者、…ブラジルで野球を志す者、…さらに彼が拓いた殖民地には、当時の貧しいコロノ移民に「自分たちにも土地が買える」という希望を持たせ年賦払いで入植させ、日本人入植者の窮状を救済に奔走した…(294頁)

 情報のグローバル化が進展した昨今、世界の情報がいつでも入手でき「海外に関心がない若者」が増えた。しかしかつては、星名のように「スケールが大きい日本人」がいたことを、改めて誇りに思える本書の内容である。研究者だけではなく多くの若者に読んでほしい一冊である。
 巻末の索引には、星名と関わりのあった人物123人の氏名が記載されていて、移民先の人間関係を研究していく際に大いに役立つと思われる。

 なお著者の飯田氏は、『復刻版、1918年週刊南米(全3巻)』不二出版(2017年)に協力されている。これは星名謙一郎がブラジルで発行した原本(ブラジル日本移民資料館)を復刻した貴重な第一級資料である。本書とあわせて活用してほしい。

(大阪商業大学教授 西岡尚也)