【リレーエッセイ11】
城壁都市 Évora
宮﨑信隆(農博・「関西地図の会」副会長)
2011年夏、当研究会の巡検でポルトガルを訪れ、「城壁都市エヴォラÉvora」を訪ねたので概観する。
[概要]
▲城壁Muralhas内のエヴォラ
城壁都市エヴォラは緩やかな起伏のある丘陵地帯にコルク樫、オリーヴが広く栽培される地中海性気候で、テージョTejo川河口の首都リスボンより東130㎞に位置し、東西1.3㎞・南北1.2㎞のローマ時代建設創始の「城壁」に囲まれた人口約4.1万人、面積約1.3平方kmの町である。
◇ポルトガル東南部のアレンテージョAlentejo地方の中心都市で、ローマ、イスラム、キリスト教各関連建造物が混在してその歴史が複雑に入り組んできたことを示すが、ルネサンス時代には大学が設置され、1584年9月には伊東マンショらの正遣欧少年使節が立ち寄った町でもある。
◇旧市街は1986年にユネスコの世界遺産に「エヴォラ歴史地区」の名で登録され、その中心部には約4,000の建物が遺存されている。
[略史]
▲エヴォラ城壁と水道橋
ドウロDouro川以南のポルトガル及びイスパニアのエストレマデュラEstremadura州に居住していたイベリア半島の先住民族であるルシタニア人Lusitaniansが建国したことに始まり、紀元前61年のカエサルG.Julius Caesarの遠征で共和制ローマ帝国の支配下に入り、二重の「城壁」を持つ町へ発展した。彼はエヴォラを「Liberalitas Julia」(肥沃なるジュリア)と呼び、エヴォラが交易路の交差点であったことからもその繁栄は続き、それは当時発行されたコインからも分かる。中心部にはコリント様式のローマ神殿が建立され、4世紀にキリスト教が浸透して司教座を持ち、クインテイアヌスQuintianusと呼ばれた。
◇民族移動時代の間、エヴォラは6世紀末に西ゴート族の王レオヴィルギルドLeovirgildの領土となり、地位は聖堂を持つ都市へと昇格したが、この期間は文化遺産が殆どない。8世紀初頭にムーア人に征服され、11世紀中頃まで統治されて、要塞とモスクのある農業の中心地で、町の特徴にはムーア人の影響を受ける。
▲エヴォラ城壁
◇イスラムからの「領土奪還Reconquista」以後は、11世紀末にモンデゴMondego川(コインブラCoimbra付近)以北の二辺境伯爵領であったポルトウカレPortucare伯領とコインブラ伯領がカステイヤ・レオンCastilla-y-Leon国王アルフォンソAlfonso Ⅵ世からアンリ・ド・ボルゴーニャHenri de Borgonaに委譲され、11世紀中葉に、ガリシアGaliciaから離れるために首都をポルトPorto東北のグイマラエスGuimaraesからコインブラへに移した。その直後、その子アフォンソ・エンリケスAfonso Henriques(アフォンソⅠ世)がオウリケOuriqueの戦いに勝利し、12世紀中葉にはカステイヤ・レオン国王アルフォンソⅦ世から国王と認められたのに続きリスボンを陥落させ、テージョ川まで版図が拡大した。1165年エヴォラが征服され、翌年アフォンソⅠ世としてコインブラに開設したボルゴーニャBorgona王朝(~1383年)の統治下に入り、1179年ローマ教皇アレキサンダーⅢ世より国王に認められた。12世紀後半、アフォンソⅠ世が南部アレンテージョも征服後は、以後15世紀にかけてポルトガルは経済的に繁栄した。更にAvis王朝(※)時代、特にマヌエルManuelⅠ世・ジョアンJoanⅢ世が統治した15世紀後半~16世紀前半にはルネサンスの中心となり、仏人彫刻家やポルトガルの芸術家が集まった。(※Avis王朝…1385~1580年ポルトガルを支配)
◇1540年、エヴォラ大聖堂Sé Évora は12~13世紀にロマネスク~ゴシック様式の過渡期に建設され大司教座に昇格し、1559年にイェズスJesits会がエヴォラ大学を創設した。イェズス会の影響の下、「対抗改革」の中心となったが、1759年ポンバルPomball侯爵がイェスズ会をポルトガルから追放し大学が閉鎖されると徐々に衰退した(エヴォラ大学は1973年再建)。
[現状と考察]
▲エヴォラ大聖堂
現存の建築物の様式は支配者の度々の交代により多様性に富み、ロマネスク建築、ゴシック建築、マヌエル建築、ルネサンス建築、バロック建築と様々に遺存され、迷路や狭い路地が入り組み、町の中心部分のほぼ三方を「城壁」に囲まれている。
◇エヴォラ大聖堂、ローマ神殿、水道橋、サン・フランシスコ教会Igreja de Sao Francisco、ロイオス教会Igreja dos Loios、カダヴァル公爵邸Placio dos Duques de Cadaval、エヴォラ大学、カルヴァリオ修道院Convento do Calvarioなど主な文化遺産は「城壁」内に存在し、更には「水道橋」の下部を倉庫、住宅に利用しながら文化財として遺存されていることは「Most Ancient European Towns Network」の一員に入っていることからも頷け、2006年のミーニョMinho大学による調査ではポルトガル18地区の代表都市の中で「経済的競合力」が1位に、某雑誌の毎年の生活環境調査における「生き甲斐のある都市」では2位と公刊され、ローマ時代から中世を経て現在もポルトガルの中心都市の一つとして発展していることを認識できよう。
【参考文献】
金七紀男:「図説ポルトガルの歴史」、河出書房新社、2011.