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第43回巡検

近江・美濃国境地帯の歴史風景 ~京極氏中世城館址・関ヶ原古戦場・中山道宿場町~

【日 時】 2010年5月23日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)

【案内者】 松田隆典 伊藤安男 辰己 勝 野間晴雄 神保忠宏

【参加者】 55名


鉄道町米原

 今回の巡検は滋賀県米原(まいばら)市と岐阜県関ヶ原町との県境地帯を往復します。明治22(1889)年に北陸本線が長浜から米原まで延び、大単-米原間(湖東線)、米原-関ヶ原間の東海道線が開通することにより、集合場所の米原駅は鉄道交通の要衝となりました。それまでは明治15(1882)年に開通した長浜-関ヶ原間に鉄道が通じており、大津-長浜間を鉄道連絡の汽船が利用されていました。昭和6(1931)年には近江鉄道線が彦根から米原まで延長されました。

 米原駅の南西には戦中まで入江内湖(1944~47年に干拓)があり、内湖周辺の集落は東海道線が開通した明治22年に入江村という行政村を構成しました。やがて大正12(1923)年に町制施行とともに駅名に因んで米原(まいはら)町と名称変更されました。近江町(息長村・坂田村が合併)の合併に1年遅れて、昭和31(1956)年に内陸の息郷(おきさと)村・醒井(さめがい)村を合併しました。さらに平成17(2005)年、米原町・近江町・山東町(東黒田村・大原村・柏原村が合併)・伊吹町(春照(すいじょう)村・伊吹村・東草野村が合併)が合併して米原市となりましたが、旧国名の「近江」や旧郡名の「坂田」を差し置いて、全国的に知られた鉄道町の名称が選ばれました。

醒井・上丹生

 バスは米原駅前を出発したあと、国道8号線を北上、天野川流域を遡るように国道21号線を東進し、醒井に向かいます。旧中山道は番場宿から醒井宿まで、天野川支流の深い開析谷を名神高速道路とほぼ並行して通じています。天野川流域は継体天皇と深い関係をもつとされる息長氏の拠点であり、国道21号線から天野川を挟んだ対岸に位置する能登瀬集落の山津照神社古墳は、地元の伝説では神功皇后の父親の息長宿禰王の墳墓といわれています。

醒井養鱒場
▲醒井養鱒場

 天野川の支流丹生川の河谷を登ると、醒井養鱒場に到着します。雲仙山の湧水を利用して設立された県立養魚試験場が下流の枝折(しおり)集落から明治13(1880)年に移転したことに始まり、現在は渓流の観光地として活況を呈しています。醒井峡谷を下って、上丹生集落で下車して木彫の里を見学します。木彫工芸の枝術集団のはじまりは19世紀初め(文化年間)といわれ、やがて仏壇(長浜仏壇)の各工程を分担する職人が定住するようになりました。筆者が平成6(1994)年に調査した時にはまだ仏壇業者が3軒、仏壇木地や錺(かざり)金具など仏壇製造工程が13人、仏壇物・寺物やだんじりなどの彫刻師が33人(工房は24軒)いましたが、高齢化と後継者不足によって職人はずいぶん減少しています。

旧東海道線と上平寺城下址

 バスは丹生川渓谷を下り、再び国道21号線を東進します。途中東海道本線と並走する天野川沿いの県道に入ります。当初東海道線は関ヶ原から岩倉山の北を廻り、長浜に至る鉄道から大野木集落の北で分岐して近江長岡駅前(1889年設置)に向かうルートをとっていましたが、関ヶ原から柏原(かしわばら)方面に通じる路線が開通(1900年に柏原駅設置)し、長浜・関ヶ原間の鉄道は明治31(1898)年に廃線となり、現在の国道365号線となるに至りました。

 岩倉山の北から伊吹山麓の農免道路に入ると、上平寺集落に到着します。 16世紀初頭に京極高清は集落の脇を尾根づたいに登る山道の中腹に山城を築きました。浅井氏の小谷城もほぼ同時期に築城されましたが、上平寺城は築城後まもなく国人層の反乱により廃城となりました。今回は山腹の上平寺城に登る時間はありませんが、集落とその周辺に往時の雰囲気を残す城下の遺構を見学します。

 「上平寺城下町古図」(近世初期の作成と推定される)によると、山麓の集落の北、伊吹神社の参道途中の傾斜地に高清の居館「御屋形」)とその一族・重臣の屋敷が置かれ、現在の集落がある段丘面に「諸氏屋敷」(家臣団屋敷)と「町屋敷」(直属商工業者居住区)を配し、その南の農免道路付近から旧北国脇往還までを「市店民屋」として描いています。居館と「諸氏屋敷」との間に内堀、「町屋敷」と「市店民屋」との間に外堀があり、これらは深い谷を刻む東の藤古川に注いでいます。また、「市店民屋」の地区の西側、上平寺城に続く尾根筋から延びた台地上に「加州」「多賀」などの屋敷群が描かれています。

関ヶ原古戦場と不破の関

 国道365号線を通って岐阜県に入ると、まもなく関ヶ原古戦場に到着します。昼食後、西軍の石田三成陣地・開戦地・決戦地・家康最後陣地などを散策します。地勢面から全体の布陣を概観すると西軍の優位が明らかだったにもかかわらず、西軍の低い士気と家康の謀略が短時間で東軍を勝利に導いた要因だったことはよく知られています。関ヶ原歴史民俗資料館(旧中山道沿いから最近移転したばかりの町役場に隣接する)でバスに乗車して、古代の不破の関跡に向かいます。不破の間は愛発(あらち)の関(越前国)、鈴鹿の関(伊勢国)とともに三関の一つで、京・近江の防衛上、東山道を扼するために置かれました。

柏原宿と中世京極氏

 バスは国道21号線を通って再び美濃・近江国境を跨ぎますが、長久寺という集落は「寝物語の里」として知られ、司馬遼太郎も『街道をゆく』で記しています。山間の国境を越えると、まもなく中山道柏原宿のある平地が開けます。バスを下車して宿場町の名残をとどめる中山道沿道を散策します。柏原宿は伊吹山のヨモギを原料とする伊吹もぐさを土産物として商う店が多かったといいます。

 柏原は16世紀初頭に上平寺に居館を移すまで中世京極氏の根拠地でもありました。承久の変後に近江守護職を継いだ佐々木信綱には4人の子がいて、三男の泰綱が惣領家を継ぎ、四男氏信が愛知川以北6郡の地頭職を相続しました。集落北西の丸山には当初得宗の忠実な家臣であった京極高氏(道誉)が斬首した北畠具行の墓があります。やがて得宗方から天皇方、さらに足利尊氏へと立場を変転させた道誉は佐々木氏庶流からはじめて近江守護に任じられ、江北3郡を軍事的に掌握した京極氏は惣領家六角氏と対峙することになります。柏原の西に位置する清滝集落の徳源院には初代氏信に始まる京極家墓所があり、これは寛文12(1672)年に丸亀藩主京極高豊が先祖累代の地の付近に散在していた墓石を集めたものです。

 柏原をあとにして、バスは国道21号線を西進し、午前中も通った醒井を通過して出発地の米原駅に帰ります。

【松田隆典 滋賀大学教授・本会幹事】


巡検報告

 当日、朝からあいにくの雨模様の中、JR米原駅に一同が集合。55名の盛況となったバスは、まず醒井養鱒場へと向かった。養鱒場の起源は、1878(明治11)年に滋賀県営のビワマス孵化場として開業したことに遡る。霊仙山付近の豊富で良質な湧水は年中12℃の一定温度で、マスの養殖に最適であった。その後、一時民間に払い下げられる経緯を経て、1929(昭和4)年に県営の施設として再出発を遂げた。現在では、調査・研究や指導・研修の機能も備え、滋賀県水産業の拠点としての大きな存在意義を有している。場内には、他にハリヨやチョウザメを飼育している池もあるようだが、雨脚が強くゆっくり見学できないのは心残りであった。

 続いて、渓谷沿いの道を下ってゆくとバスは上丹生の木彫りの里へと入ってゆく。緻密で繊細な彫刻を見ていると、思わず溜息がこぼれる。集落内には、仏壇の木地を仕上げる木地師、彫り物を手がける彫刻師、漆塗りを施す塗師、錺(かざり)金具を担当する錺金具師(彫金師)らが軒を並べ、分業体制を作っている。いすれの工房にも職人の誇りが漲っていた。さらに雨脚の強まる中、上平寺集落で一旦停車。中世の北近江一帯を支配した京極氏の城址を一目見ようと傘の列が山腹を登ってゆく。

 午後に入り、県境を跨いで滋賀県から岐阜県へと入る。関ヶ原古戦場を前に、腹が減っては戦ができぬというわけではないが、まずは昼食をして腹ごしらえ。そして戦略会議ならぬ総会を執り行う。腹ごしらえは済ましたものの相変わらず雨は降り止まぬため、古戦場の見学は控えて、関ヶ原歴史民俗資料館へ。かつての武将たちが目の前にいたとすれば、敵前逃亡だと咎められようか。しかし、資料館の展示から兵どもの夢の跡をしかと脳裏に焼き付けることができた。

柏原宿歴史館
▲柏原宿歴史館

 不破関資料館では、館長自ら懇切丁寧な説明を頂く。付近は、現在でも名神高速道路・国道21号線・JR東海道本線が並走する交通の要衝である。無事に関を通り抜けた一行は、再び美濃から近江へと歩を進める。中山道の宿場町柏原では柏原宿歴史館を見学する。往時の宿場では名物のもぐさ屋が10数件もあったらしい。我々も内容の濃い行程であったため、そろそろ疲労が溜まってきた。現代の旅人の疲れを癒すのは、お灸の代わりにさしずめビールといったところか。バスは再び米原駅に戻って、無事解散となった。

 一日を通して空模様には恵まれなかったが、その分車内では案内の先生方の詳しい説明をじっくり拝聴でき、各施設では展示をゆっくりと拝見することができたように思う。

【記録:野田晋一】