第40回巡検
和泉山脈の南北山麓から和歌山城下町へ~田尻町綿王の近代建築・根来寺・熊野古道~
【日 時】 2008年11月30日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 野間晴雄 辰己 勝 辰己眞知子
【参加者】 80名
天王寺から田尻町へ
大阪の天王寺公園交番前に集合し、阪神高速湾岸線で南海電鉄泉佐野駅前へ行き泉南・和歌山から参加の方を乗せて、最初に田尻町歴史館へ向かいます。途中の湾岸線の車窓からは、大阪湾南部の埋立地、工業地帯、二期工事を終えて2本の滑走路が運用され24時間空港の機能を発揮し始めた関西国際空港を見ていただけます。
田尻町歴史館は、大阪合同紡績創設者谷口房蔵の別邸で、1922年に建てられたドイツ式の洋館、和館、土蔵、茶室からなります。窓や欄間にはめ込まれたステンドグラスや家具が、レトロ(当時はモダン)な雰囲気を感じさせます。窓や欄間にはめ込まれたステンドグラスや家具が、レトロ(当時はモダン)な雰囲気を感じさせます。窓や欄間にはめ込まれたステンドグラスや家具が、レトロ(当時はモダン)な雰囲気を感じさせます。窓や欄間にはめ込まれたステンドグラスや家具が、レトロ(当時はモダン)な雰囲気を感じさせます。
中世の要塞都市、根来寺
田尻町をあとにして、和泉山脈の風吹峠を越えて根来寺へ参ります。この道は、1585年に羽柴秀吉が紀州攻めを行ない、根来寺を焼討ちにしたときに通ってきた道です。
覚鑁(かくばん)上人は、高野山内に伝法院を建立しましたが、金剛峯寺との対立から1140年に根来の豊福寺(ぶふくじ)へ移り、円明寺・神宮寺を創建します。覚鑁の入滅後、座主の頼瑜(らいゆ)は1288年に高野山から大伝法院と密厳院を移し、ここに新義真言宗総本山根来寺が成立しました。根来寺は僧兵を擁し、戦国時代にいち早く鉄砲を導入して、強大な軍事力と経済力を背景として勢力を伸ばし、中央政権に対して抵抗しました。根来寺では、国宝の大塔と本坊にある名勝の庭園を見学します。大塔は、1547年に完成し、現存する多宝塔のうち最大のものです。秀吉の焼討ちを免れましたが、その柱や扉には火縄銃の弾痕が残り、戦闘の激しさがうかがえます。根来寺の見学後、バス駐車場前の岩出市歴史民俗資料館を見学します。
根来寺の境内は、南北2.2km、東西2.1kmあり、ちょうど中央構造線、根来断層の真上に位置しています。境内の東端、菩提峠にある根来断層の露頭をみて、近畿大学生物理工学部の本棟と図書館の間に走る根来断層の位置を車窓から確認し、昼食に向かいます。お昼は、岩出市の中心部、紀ノ川河畔にあるホテルいとうでとっていただき、引き続きそこで総会を行ないます。
熊野古道に沿う和佐と山東
▲旧中筋家住宅(近世大庄屋)
午後は、最初に和歌山市の東部、和佐地区にある旧中筋家住宅を見学します。同住宅は、近世の大庄屋の屋敷で、1974年に国の重要文化財に指定されました。中筋家は1585年に秀吉の根来攻めの兵火を逃れてこの地に止住した文貞坊に始まると伝えられ、4代目良政が1687年に禰宜村の庄屋に、5代目良重が 1750年に和佐組大庄屋となってから明治まで6代にわたって大庄屋を勤めました。2000年から10年かけて保存修理後、一般公開の予定ですが、修理にあたっている和歌山県文化財センター御船(みふね)さんにご案内いただき、一足先に屋敷内を見学いたします。
旧中筋家屋敷地東側の道は熊野古道にあたるので、少し歩くことにしたいと思います。南へ 500mほど行くと、熊野古道の王子社、和佐王子があります。和佐王子は、社はなく緑色片岩に「和佐王子」と刻んだ碑があるだけです。さらに100m進むと弓の名人和佐大八郎の墓があります。彼は、1685年に京都三十三間堂の通し矢で、一日で8,133本を的に命中させ日本記録をつくった紀州藩士です。ここから矢田峠を越えて、次の平緒王子まで歩きたいところですが、時間の都合もあり、バスで伊太祁曽(いたきそ)神社へ向います。
伊太祁曽神社に着く手前の線路は、2006年、南海電鉄から経営を引き継いだ和歌山電鐵鉄貴志川線で、和歌山市の和歌山駅と紀の川市の貴志駅を結んでいます。いちご電車、ネコの駅長タマで知られ、タマはテレビやフランス映画「人間の鏡としての猫」にも出演しました。
伊太祁曽神社は、五十猛命・大屋津姫命・枛津姫命をまつる延喜式内名神大社です。日本書紀によると、五十猛命は日本に木種をもたらした神とされ、本神社は木の神様として親しまれています。
和歌山城下町と鷺森別院
最後に、和歌山市の中心部へ入り、和歌山城下町を少し散策します。今年の1月に和歌山大学の水田義一先生と私で「和歌山城下町探検マップ」(当日配布予定)を作成し販売したところすぐに売り切れ、4月に改訂版を増刷しました。また、同マップを持って城下町を歩く会を春に3回開催したところ、200名を超える参加者があり、市民の方々から好評をえました。その一部のポイントだけですが皆さんをご案内いたします。
まず、城下町建設前から寺内町を形成していた鷺森別院の前でバスを降りていただきます。鷺森別院は、1563年に和歌浦の秋葉山からここへ移ってきて紀州真宗の拠点となりました。信長と石山本願寺との戦い後、1580年~83年の間、顕如が石山から移り、ここが浄土真宗本願寺派の本山となりました。その後、本山を貝塚に移した後も、紀州の真宗勢力は本願寺の後ろ盾となりバックアップしました。
近世になり和歌山城と城下町の建設が行われ、城下町には東西60間×南北34間の整然とした町割がしかれました。この城下町の町割は、全体としてよく残っています。鷺森の寺内町の町割は変わることなく第二次世界大戦後まで残りましたが、その後の区画整理事業によって街区は付け替えられ、古い地割はほとんどなくなってしまいました。その痕跡は、鷺森別院西側の道路にみることができます。
城下町の区画は道路を挟んで同じ町名となる路線式で、街区の背中合わせの部分には「大水道」と呼ばれる下水道がありました。その遺構が鷺森南側の城北遺跡で検出され、現在もその場所(城北公園)に保存・公開されています。
そこから橋丁にある博物学者南方熊楠生誕地の銅像の前を通って、北外堀(市堀川)に架かる寄合橋を渡って湊紺屋町の南方酒造(藩校学習館跡)に参ります。この湊紺屋町と橋丁を結ぶ線が城下町の東西の基準線です。北外堀は幅が約33mありましたが、現在は埋め立てられて約24mとなっています。
寄合橋を渡ると道が少し食い違っているのに気がつきます。湊地区では1区画が60間×30間となっていて、寄合橋の東側の内町と西側の湊では区画の幅が違うため食い違っているのです。
藩校は、最初に5代藩主徳川吉宗が湊御屋敷跡に講釈所として創設し、その後10代藩主治宝が整備し、「学習館」と名づけました。幕末には和歌山城の南、吹上に移し庶民も学べる岡山文武場が開設され、後の和歌山大学教育学部へとつながります。
ここ藩校跡で解散といたします。大阪へ帰られる方はバスに乗っていただき、最初の天王寺まで戻ります。南海電鉄をご利用の方は、そこから市堀川に架かる伝法橋を渡っていただくと、数分で和歌山市駅に着きます。ちなみに、「伝法」は根来寺と関係する地名です。秀吉の紀州攻め後、根来寺の焼け残った大伝法院(午前中見学)を解体し、堂舎の資材をここにしばらく積み置き、大坂へ送ったことに由来します。資材を荷揚げした大阪の安治川河口にも同じ「伝法」という地名が残っています。
【額田雅裕 和歌山市立博物館主任学芸員】