第39回巡検
三重県北勢地域の近世・近代の歴史地理と産業~桑名・四日市・鈴鹿のマンボ~
【日 時】 2008年5月25日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 田中欣治 原 眞一 内田忠賢 辰己 勝 野間晴雄 矢野司郎
【参加者】 59名
名古屋駅から名古屋港を跨いで桑名へ
出発地点の名古屋駅西側周辺は、あまり変化がなくビルやローカル的な商店や住宅などが混在した景観を呈しています。メインストリートの広小路に通じる笹島交差点を左折して、名古屋駅正面のロータリをまわり、名駅入口から名古屋高速に入ります。東側の駅前周辺は、JRセントラルタワーズ、名古屋ルーセントタワー、都市再生特区として2007年に開業したミッドランドスクエア、開業間近なモード学園スパイラルタワーズをはじめ、近年の10年程の再開発により高層ビル建設ラッシュなどで都市景観が大きく変容。さらに広大な旧国鉄の笹島貨物駅跡地の「ささしまライブ24地区」再開発計画が実施されます。
都心環状を進み、城や県庁・市役所などの官庁街を北側に見ながら名古屋城南側の外堀に沿って走行。まもなく南に方向を変えほぼ直進し、名古屋南JCTから伊勢湾岸自動車道に入り西進します。名港トリトンと称せられる名港東大橋、中央大橋、西大橋の3つの橋を通り過ぎます。架橋から金城埠頭など全国最大の貿易港である名古屋港の港湾施設や臨海工業地域のダイナミックな景観もよく把握できます。海上区間(全長2,628m)が全通したのが1998年で、2008年2月下旬に滋賀県草津まで開業した新名神高速に続き、また東名高速ともつながっており、伊勢自動車道は一大幹線自動車道の重要な役割を担っています。
伊勢湾岸部を横切り木曽三川河口デルタの架橋を跨ぎ、湾岸桑名ICを出る。途中、飛島村に三菱重工業飛島工場、川崎重工業名古屋第2工場、弥富市に名古屋第1工場が立地。さらに港区に三菱重工業大江工場、知多半島に富士重工業半田工場が進出し、名古屋港周辺地域は航空宇宙産業の全国の大集積地を形成しています。長島(現桑名市)先端の輪中地帯には、伊勢湾台風(1959年)後の護岸などの復旧工事の途次に1963年に良質な温泉が湧出し、温泉と一大レジャー施設が整備されました。
桑名の歴史的地域を訪ねる
桑名の旧市街は、濃尾・伊勢両平野の接点にあり、木曽三川河口の揖斐川と員弁川(町屋川)に囲まれた地域である。近世、海陸川の基点で米や木材の集散地。桑名は中世から近世にかけて、市場町、港町、城下町、東海道の宿場町と熱田宮への渡しなど複合都市機能を有し、全国的に「十楽の市」として隆盛を誇った都市です。現在、桑名と名古屋間は、JR、近鉄、国道1号、23号、東名阪自動車道、伊勢湾岸自動車道が並走し、鉄道と道路交通の整備が非常に進んでおり、人口約14万人(2007年9月)の桑名市は、名古屋大都市圏の工業やベッドタウン機能を担っています。
▲桑名・六華苑(旧諸戸家)
最初の見学地は六華苑(旧諸戸邸)です。諸戸二代目清六は桑名で米穀業を営み、その後明治新政府高官や三菱財閥などの知遇を得て事業を拡大。田畑を次々と開墾し、山林を植林して全国一の地主・山林王になった実業家です。桑名の上水道の整備などまちづくりにも貢献。大正2(1913)に揖斐川・長良川を望む広大な敷地に日本庭園を擁する洋館と和館の新居が竣工。洋館は鹿鳴館やニコライ堂などを手がけた「日本近代建築の父」イギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計で、これらの邸宅は1997年国の重要文化財に指定。堤防から近くには長良川河口堰をまた遠くには養老山地、鈴鹿山地を望むことができます。近くには住吉神社があり、そこを通り過ぎて七里の渡し跡に立ち寄ります。周辺は伊勢湾台風後の護岸工事で旧観が大きく変化。碑のそばに伊勢神宮の一の鳥居があり、神宮の遷宮ごとに建て替えられ、伊勢国の北の玄関口にあたります。
桑名は本多忠勝15万石の城下町として1601年から形成。城は平城で外堀と揖斐川の水を利用した堀で囲まれていました。現在は城趾として九華公園になっている。旧東海道桑名宿の面影はあまり残存していない。この街の一角に名高い春日神社の青銅製大鳥居があります。桑名は東の川口に対し、西の川口とよばれた鋳物の地場産業のまちとして知られ、長年にわたって地域経済を支えてきました。
海上から陸からの四日市港ウォッチング
桑名から国道23号を南へと進み四日市港を目指す。本港付近の国土交通省の四日市港事務所での昼食後、四日市港の千歳運河にかかる末広橋梁(旧JR四日市港駅鉄道橋)を車窓から見る。1931年に完成し現役の跳上げ橋で全国3つある中の最古で、1998年に国の重要文化財に指定されました。
▲四日市港「潮吹き」堤防
旧港から霞ヶ浦埠頭まで国交省四日市港湾事務所による特別のチャーター船で港湾見学します。有名な四日市コンビナートの姿が目前に展開。出発してまもなく「潮吹き防波堤」近くを通過します。これは明治26(1893)年に完成して、1996年に港湾施設では初めて国の重要文化財に指定。高波で堤防が破壊・破損されない特殊工法が施されています。
四日市港は江戸の終わり頃から明治にかけて伊勢湾最大の商業港で、明治3(1870)年には、四日市と東京を結ぶ定期輸送が開始し港勢は著しく発展。1899年に国際港として開港。名古屋港の開港は明治40(1907)年です。1932年豪州定期航路が寄港、羊毛の輸入が開始。同年、特定重要港湾になる。2004年には名古屋港とともに伊勢湾港としてスーパー中枢港湾の指定を受けました。コンテナヤードがある霞ヶ浦埠頭で下船し、開港100周年事業で1999年に完成した四日市港ポートビルの展望室に上がります。
鈴鹿山麓の農業景観と椿大神社
港湾見学後は東名阪をくぐり、鈴鹿東山麓の苗木・花卉の農園や茶園など多彩な農業的土地利用の様子を見ながら、椿大神社に向かいます。仁和年間(885-889)には伊勢国一宮になるなど由緒ある社です。しかし、伊勢国一宮については異論もあります。水沢や山本地区周辺は、日本三大銘茶といわれる伊勢茶の主産地で製茶工場が集中しており、三重県の茶生産量は静岡県、鹿児島県に次ぐ全国3位です。また鈴鹿IC周辺はさつきの全国的な栽培地です。
横井戸のマンボを見て新名神・草津へ
マンボは日本のカナートとも称され、東海地方特有の横井戸の水利施設であり、一部は生活用水にも利用。マンボの名称は、トンネルの間歩(まぶ)や鉱山の坑道から由来しているともいわれています。鈴鹿山麓の北部や内部(うつべ)川扇状地、さらに岐阜県垂井地域に集中。起源は江戸時代末期といわれるが、名称の由来とともにまだ定かではありません。マンボはこの地域の地形・土壌に大きな要因があります。鈴鹿東麓は断層崖で扇状地がよく発達し、透水性が強いクロボク性土壌などが広がり、水の確保に大きな障害のある地域です。国営の三重用水事業(1990年完成)により農業用水が確保されてから、マンボの役割も低下の一途。廃止マンボも少なくありませんが、畑地のなかにマンボを見つけましょう。またマンボは文化的遺産としても価値があります。マンボについては案内者の田中欣治先生が詳しい(朝日新聞1988年12月2日付文化欄)。
マンボ見学を終えて東名阪鈴鹿ICに入り、亀山JCTから今年2月下旬に部分開通(49.7㎞)した新名神高速を快走して一路草津に向かいます。途中の車窓からの眺めも楽しみたい。それでは名古屋でまたお会いしましょう。
【原 眞一 中部大学非常勤講師、本会幹事】
マンボ(横穴式地下水灌漑システム)雑感
▲マンボ
産湯につかり、マンボの水で育てたお米で大きくなった私、産地は三重県いなべ市(旧員弁郡)北勢町阿下喜です。
2008年2月下旬の某日、NHK・TVの探検ロマン世界遺産「オマーンのファラージ―命の水―」をごらんになった方がいらっしゃるとおもいます。はるか山奥の地下水源から水をさぐりあて、途中にいくつかの管理用たて井戸を掘った地下水路をゆたかな水が山麓の村まで流れていました。水路はコンクリートできれいに整備され、水源に近いところでは飲料水や洗濯などに共用され、中流は給水台帳にもとずいて各農家の畑に時間給水されていました。
水路の末端はナツメ椰子の林を潤し、沙漠にまではいたらない配水システムが生き生きとした住民の顔とともにあざやかな映像で紹介されていました。
これが今回ごらんいただく鈴鹿のマンボの「在りし日の姿」です。日本では 河川灌漑 貯水ダム 動力揚水などに転換して 特別に水量の多いマンボ以外はほとんど使われなくなりました。
2000年以上の歴史をもつイラン(当時はペルシャ)のカナートがイスラム諸国に伝播して、アフガニスタンやシリヤ・レバノンなどではカレーズ、オマーンではファラージなどとよばれました。
同様の地下水灌漑システムは 北アフリカのアルジェリアやモロッコ、中国のトルファン、南米ペルーのナスカなどにもあります。その技術は伝播したものか、その地で独自に発生したものかまだ解明されていません。
日本では、鉱山の坑道を「間歩」といいます。「まんぼ」は中世末ごろから使われていますが、その起源は今後の研究に待たれます。
(日本のマンボを紹介したビデオはNHK津放送局製作の「巨大地下水路―マンボ―」がNHKアーカイブスのコレクションンにあります。ごらんになりたい方はお問い合わせください。世界各地の横穴式地下水灌漑システムの諸論文を収録した文献に『小堀巌編:マンボ日本のカナート』三重県郷土資料刊行会、6,000円があります。書店または直接お問い合わせください。
【田中欣治 津市立三重短期大学名誉教授】