第38回巡検
猪名川に沿って―多田・池田・伊丹・尼崎―
【日 時】 2007年12月2日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 池田 碩 今里悟之 小泉邦彦 杉山伸一 辰己 勝 野間晴雄 正木久仁 森田恭二 山田 誠
【参加者】 58名
今回の巡検ルートは猪名川沿いで設定しました。川西市多田は多田(清和)源氏発祥の地、池田と伊丹は猪名川を挟んで戦国期には地方豪族が居城を構え、近世にはともに酒造業で知られた在郷町と似通った性格を有し、因縁浅からぬ関係にある町です。また、近代になると北摂、西摂地域は早くから大阪の郊外住宅地として開発が進められた地であり、巡検でも戦前に開発された郊外住宅地を訪れて、景観変化の様子を観察する予定です。
多田神社ヘ
バスは新大阪駅から新御堂筋を一路北へ向かい、カルフールを右手に見て箕面の山に突き当たる付近で、本年5月に開通したばかりの箕面グリーンロードに入ります。長さ5,620mのトンネルを出ると、猪名川の支流余野川沿いの箕面市下止々呂美です。この付近は炭の生産地域の一つで、集散地池田へ出していました。ここから約3km上流では箕面森町(ミノオシンマチ)が建設中で、平成19年10月販売予定になっています。
右手に伏尾台住宅地を見ながらバスは一旦池田方面へ南進し、池田市木部町付近から猪名川に沿って北上して多田神社へ向かいます。木部町、古江町など池田市北部の細河地区は、宝塚市山本と並ぶ植木生産地として知られ、その歴史は16世紀はじめに遡るといわれています。良質な砂質土壌と排水に恵まれていただけでなく、優れた接木技術の導入が関西有数の植木生産地確立の背景にあります。現在の栽培面積は約100ha、生産者は約250戸で、車窓からマツや、マキ、ツゲなどの植木溜を見ることができます。
多田神社は、清和天皇のひ孫源満仲が本拠とした多田の地に天禄元年(970)に創建され、満仲、頼光、頼信、頼家、義家を祭神としており、元多田院とも多田大権現とも言われ、関西日光と称されることもあります。源氏につながる武将達の信仰が厚く、現在の社殿は徳川四代将軍家綱の再建で、本殿、拝殿は重要文化財に指定されています。また唐椿やオガタマ、ムクロジなどの樹木がうっそうと繁る境内一円は国の史跡指定を受けています。
池田
池田は五月山が猪名川付近までせり出した場所に形成された谷口集落に起源し、谷口に伊居太神社が位置します。当社は古代呉庭(クレハ)の地の開発に関係する穴織、呉織の織工女のうち穴織を祀り、午後に見学する呉織を祀る呉服神社を「下の宮」と呼ぶのに対して、「上の宮」と呼びます。伊居太神社の東には平成12年に建てられた池田城跡のやぐら風展望台が見えます。池田城の起源は不明ですが、戦国期には池田氏の居城となり、城を中心に町が建設されていました。織田信長の摂津侵攻などによって池田氏は衰え、荒木村重が城主になりました。室町幕府が滅んだ翌年の天正2(1574)年に村重は伊丹城に移り有岡城と改めました。池田城は廃城となりましたが、その後、織田信長が有岡城の荒木村重を攻めた際に陣を敷いたと記録される「古池田」を池田城跡とする説があります。発掘成果などから池田城は本丸の東から南に三ないし四重の堀があったとみられ、現在も本丸東に残る堀跡に往時の面影がしのばれます。展望台からは池田だけでなく遠く伊丹、尼崎、西宮まで望むことができます。
町は城の南から西に形成されていたと考えられ、東西に伸びる能勢街道沿いの本町筋が最も早く町場化し、そこから北、伊居太神社に向かう中之町筋、新町筋が近世池田の骨格を形成していたと考えられています。池田城跡南側眼下に見える黒塀の建物は呉春酒造で、本町筋と中之町筋が交わる所です。「元禄十年池田村絵図」によると、元禄期には酒造家は38軒を数え本町筋に集中していました。現在は呉春酒造と緑一酒造が残るだけです。
池田城跡からは旧市街地を逸翁美術館(旧小林一三邸)、呉春、能勢街道、星の宮などを経て辻が池公園まで徒歩巡検します。池田市民病院とその南側のマンションは、平成5年に移転した大阪教育大学池田分校跡地に建設されたものです。
▲池田市室町の住宅地・日本最初(明治43)の郊外住宅地
昼食後は阪急宝塚線の南側呉服神社と室町住宅地を訪れます。呉服神社を囲むように広がる、阪急電鉄線と平行および直交する道路網の区域が室町です。明治43年に小林一三が開発した日本最初の郊外住宅地といわれる池田新市街で、のちに「室町」と命名されました。約100坪の住宅が227戸建設され、早くから室町倶楽部(のち室町会)を結成し住民の親睦、居住環境の改善などに努めてきました。住宅以外の進出や相続等に伴う分割も少なく、建設当初の住宅地景観をよく残しています。バスは呉服橋を渡って猪名川右岸へ出ますが、橋の東詰め南側は呉服座跡です。
伊丹から尼崎ヘ
バスは阪急川西能勢口駅とJR川西池田駅の問を通り伊丹へ向かいます。市街地再開発によって両駅は一体化し、阪急側には大型商業施設が立地して池田の商圏を凌駕する勢いにあります。進行方向右手には伊丹台地の段丘崖が続きますが、鋳物師付近で段丘上へ迂回し、車窓から段丘崖下と段丘上の景観比較を試みつつ、阪急伊丹駅前から伊丹郷町館へ向かいます。兵庫県南部地震で倒壊した阪急伊丹駅は平成10年に駅ビル「REATA」(伊丹再生の意味)がオープンし、一帯の町並みもすっかり様変わりしました。
荒木村重が有岡城に移った頃には町場が形成されており、廃城後も在郷町として産業、交易が盛んでした。なかでも、伊丹は池田と並ぶ酒造地として知られ、三段仕込みによる諸白酒は江戸へも送られて高い評価を得ていました。正徳5(1715)年には酒造家は72軒を数え、酒造高は6万石にのぽりました。しかし、この頃から新興の灘酒造地が台頭し、19世紀半ばには伊丹の酒造業は急速に衰退します。灘と比べて江戸への海上輸送が不便であったことが、伊丹酒造業衰退の理由とされています。「元服の祝儀は酒も男山」「花はさくら木酒はけんびし(剣菱)」など、江戸時代には伊丹酒の銘柄を織り込んだ句も多数読まれましたが、衰退とともに他産地に移った銘柄もあります。現在市内の酒造業者は3社を数えるのみです。
▲伊丹郷町の町並み
伊丹では伊丹郷町館、小西酒造長寿蔵、有岡城跡などを見学します。伊丹郷町館の中心になる施設が延宝2(1674)年建築の旧岡田家住宅・酒蔵(平成4年重要文化財指定)で、酒蔵は現存し年代が判明するものでは日本最古のものです。有岡城から町場にかけての範囲では昭和50年から約300カ所発掘されており、岡田家の下層からは延宝以前の酒造竃も検出されています。旧岡田家の南向かいは小西酒造の長寿蔵で、その横を通って徒歩でJR伊丹駅西に隣接する有岡城へ向かいます。有岡城は東と北は伊丹段丘崖を利用し、西と南には本丸を囲む堀を設け、さらに外側には町場囲む堀と土塁をめぐらせた惣構えであったと考えられています。
有岡城跡でバスに乗車し、工業都市尼崎の一端も垣間見ながら解散地のJR尼崎駅へ向かいます。途中、富松城の横を通りますが、ここは戦国期に細川高国方についた薬師寺氏が拠った居城で、現在は荒れた塚を残すのみで開発の危機にさらされており、史跡保存運動とのせめぎ合いの焦点にもなっています。
解散後、恒例の懇親会をキリン工場跡地に建設された「ホテルホップインアミング」で行います。こちらにも振るってご参加下さい。
【正木久仁】