第32回巡検
宇治・伏見の歴史地理的遺産を訪ねる
【日 時】 2004年11月28日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 秋山元秀 池田 碩 斎藤清嗣 関口靖之 辰己 勝 南出眞助 森田恭二 森田 勝 山田 誠
【参加者】 64名
今回は晩秋の宇治市から京都市伏見区の宇治川沿いで、歴史地理的遺産を見学する巡検を企画しました。すでに何度も来られた方も多いと思いますが、近年の変化も大きい地域です。この機会に是非再訪をしましょう。
集合地はJR京都駅八条口の団体バス乗り場です。そこから、東寺を右に見て一路堀川通りを南下します。京都の新しい道路体系になる油小路通りの高架道路(工事中)の下を通り、宇治川を超えて第二京阪道路の側道を走り、京滋バイパスの側道を東に進むと宇治市に入ります。巨椋池干拓地の中に現われた巨大な久御山JCTとその周辺のショッピングタウンの出現が京都南部地域の近年の大きな変化です。京滋バイパスは昨年、名神高速道路の大山崎JCTとつながり名神高速道路の京都市域での渋滞を緩和させました。
▲宇治上神社
宇治市では、宇治川を挟んで両側にある世界遺産を訪れます。北側にあるのが「宇治上神社」です。本殿は平安時代後期に建てられた現存するわが国最古の神社建築です。1994年12月に対岸の平等院とともに、「古都京都の文化財」(15社寺・城)として世界遺産に登録され、訪れる人が増えました。山すその木立に囲まれたひっそりとした佇まいです。石畳のきれいな「さわらびの道」を歩き南側にある「宇治神社」の境内を抜け、「宇治橋」に向かいます。橋の東詰近くの「橋寺放生院」で、宇治橋架橋の碑文が刻み込まれた「宇治川断碑」を見学します。現在の宇治橋は1996年に架け替えられ、古い橋と同様に中央の上流側には三の間という張り出しを設けました。豊臣秀吉がここで宇治川の水を汲ませて茶をたてたと言われる場所です。ここから見る宇治川の清流と山々の紅葉は見事です。
宇治川南岸は宇治市最大の観光スポットで平等院の参道には宇治茶を主体とした土産店が並んでいます。ショッピングを楽しみ、宇治川の中の島(橘島と塔の島)を散策すると、昼食・総会会場に着きます。午後はまず平等院を見学します。平等院は藤原頼道が父道長の別荘を1052年に寺院に改めたもので、翌年に「鳳凰堂」が阿弥陀堂として建てられました。その中には仏師定朝の作である阿弥陀如来像が安置されています。また、「鳳凰堂」の前の池は創建当時には直接宇治川とつながり、対岸の山並みと合わせた西方極楽浄土を現わしていました。藤原氏の栄華、王朝文化を語る最大の遺構です。2001年にオープンした平等院ミュージアム鳳翔館をあわせて見学します。ただ、鳳凰堂の中は修復中のため阿弥陀如来像を拝観できないのが残念です。
宇治市は源氏物語の宇治十帖にちなんで「源氏物語の町」と称しています。今回は割愛しましたが、宇治上神社の北側に1998年に開館した「源氏物語ミュージアム」があり、源氏物語の世界を復原模型や映像で実感させてくれます。三室戸寺、黄檗山万福寺などとともに、是非訪問していただき、四季折々の風情を満喫して下さい。
バスは、宇治川の左岸の低地を伏見に向かいます。現在の宇治川の流路は、宇治橋をすぎると大きく北へ迂回し桃山丘陵の南端をかすめて西に向かいます。これは豊臣秀吉が伏見城築城(1594年)に伴い、それまで直接巨椋池に注いでいた宇治川を付け替えたためです。途中で通過する宇治市槇島は中世には槇島城が川辺にあり、その西側は広い巨椋池でした。現在向島ニュータウンを中心とする団地や多くの商工業施設が立ち並ぶ国道24号線沿いも池の中でした。その巨椋池は、1941年に干拓地に変わり、この地域は二度の大規模な地形改変を受けたことになります。下車してその痕跡を見る時間は取れないので、当日配布の資料や地図で説明します。
▲三栖閘門
伏見へは宇治川にかかる観月橋を渡って入ります。今年は「新選組」ブームで観光客も一段と増えました。見学侯補地は多いのですが、近世以降の町の発展と変遷を「港町・伏見」という視点から案内します。秀吉以降の宇治川は淀川とつながり京都と大阪を結ぶ水上交通が盛んになり、京都側の玄関が伏見です。二つの「みなと」のうち、はじめに京阪電車中書島駅西側にある「伏見港公園」を訪れます。ここは、その名の如く、1962年まで港として機能していた場所であり、その後埋め立てられ体育館等に生まれ変わりました。宇治川本流と宇治川派流(濠川)の合流点にあたる「三栖閘門」(1929年から62年まで使用)が地域のランドマークとなっています。昨年修復が完成した南側の閘門の上まで登って、周囲の景観と当時の港を連想し、資料館を見学します。
ここから徒歩で整備された宇治川派流を北に進むと旧高瀬川・濠川(伏見城外堀)との合流点に着きます。高瀬川は角倉了以が伏見から京都二条まで開削(1614年)したもので、これが伏見の町を城下町から港町・宿場町へ転換・発展する基礎となりました。その偉業をたたえる記念碑と、江戸時代以降の水系や問屋・船宿の変遷を示す説明盤があります。江戸時代の港の中心はこの合流点から東側です。参勤交代をする西国大名が御座船で船入りし宿泊した本陣・脇本陣をはじめ、坂本竜馬ゆかりの「寺田屋」をはじめとする船宿が並んで賑わっていました。その面影を北浜・南浜・西浜・京橋等の地名や、船着場を復原した「伏見みなと公園」で見ることができます。自由散策の時間を設けますので、「寺田屋」の見学、「竜馬通り商店街」、酒蔵のある町並散策をお楽しみ下さい。
当時の伏見の繁栄振りを簡単に記しましょう。江戸幕府は伏見を伝馬所として位置づけ、伝馬100匹を常置し、大名屋敷も置かれました。また、同業者仲間も集まり、19世紀前半には、車借3組・車両数172両・族籠屋42軒・水上仲仕42人・船大工12軒を数えました。さらに最盛期には、淀川には過書船742隻・淀船507隻・伏見船200隻・高瀬船128隻が運航しました。江戸末期の人口は約4万人で、日本最大の内陸港湾都市として栄えました。当時の京都や大坂の人口は約40万人でした。
明治維新後は、鉄道(東海道線)に対抗して、蒸気船の就航で京都見物の客を下ろし、市内へは京橋の北側から日本初の電気鉄道(チンチン電車)で運びました。また、琵琶湖疏水・鴨川運河の完成で日本海側の物資を大阪方面に、大阪から京都へは石炭などの愉送路の役割を果たしました。昭和に入り前記の三栖閘門の完成とともに近代的港湾の整備が進められましたが、1950年代後半からは陸上交通が盛んになり、舟運の幕を閉じました。
最後の見学地は、伏見の顔である「清酒」です。酒蔵の町並を歩き、「月桂冠大倉記念館」では月桂冠発祥の酒蔵で伝統的酒造についての見聞を深め、利き酒をお楽しみください。
バスで京都駅に戻り、「ニューFHG15周年の記念パーティー」として懇親会を行います。こちらにも多数ご参集下さい。
【辰己 勝】