第30回巡検
京都南西郊から高槻へ
【日 時】 2003年11月30日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 樋口節夫 前田 昇 山田 誠 植村善博 正木久仁 辰己 勝 関口靖之 紀 禎哉 矢野司郎
【参加者】 72名
第30回の節目となる今回の野外歴史地理巡検は、京都から高槻までのコースで実施致します。こう記しますと「西国街道に沿って」というようなタイトルを思い浮かべる方が多いと思います。実際、かつての西国街道の現代版である国道171号線を利用する区間も多いのですが、あえてそのタイトルを用いなかったのは、午前中最初の見学テーマとして、西国街道からはかなり離れている、国道9号線沿いの現代的な開発の様子を選定したからです。
▲京都大学桂キャンパス
京都駅八条口に集合するのは何年ぶりのことでしょうか。出発後、堀川通を経て堀川五条から五条通(国道9号線)に入ります。西京極総合運動公園を車窓の左に見て、桂川にかかる西大橋を渡ると、しばらくはロードサイドショップが展開する景観です。天皇の杜古墳を過ぎてまもなく国道を離れて右折し、かなり急な斜面を上ります。ほどなく、この10月に一部オープンしたばかりの京都大学桂キャンパスに着きます。ここは、吉田地区の狭隘化への対処を目的として、工学研究科と情報学研究科を収容すべく、数年前から建設が進められている所です。本年夏に工学研究科の電気系教室と化学系教室の移転作業が行われ、10月から研究活動が開始されていますが、他の諸教室もすべてここに移るには、まだ数年を要すると予想されています。新しい施設だけに環境への配慮は行き届いているとのことですが、何分吉田地区とは周囲の状況がまったく異なる所で、いろいろな問題も抱えているようです。
京大桂キャンパスから、京都周辺の住宅地開発の中でも最も高級志向と言われる桂坂地区(その一角に国際日本文化研究センターがあります)を通って、1970年代に京都市のイニシアティヴで開発が行われた洛西ニュータウンに至ります。ここの開発が行われる前、敷地内の遺跡発掘調査を藤岡謙二郎先生が担当され、藤岡門下の中堅・若手研究者が多く協力されました。本会の会員やご家族の中には懐かしく思い出される方もおありかと存じます。どこかで下車見学したいのですが、あいにく駐車が困難で、車窓からの見学になります。
乙訓の竹林を左右に見ながら、長岡京市の勝竜寺城跡を目指します。ここは、戦国期に細川家の居城のあった所で、明智光秀の娘玉(後のガラシャ)が細川忠興に嫁いだ(1578年)のがこの城でした。10数年前までは、地名と堀だけが古い城の存在をうかがわせてくれるにすぎない状況で、先年亡くなられた桑原公徳先生が、ご著書『地籍図』(学生社、1976)の中で、地籍図を重要な資料として城と城下町の範囲を図上復原しておられます。この成果が生かされたのでしょうか、15年ほど前から長岡京市の手によって勝竜寺城公園として整備され、天守閣を思わせる管理棟の2階は展示室として利用されています。
勝竜寺城跡を見学の後、バスは島本町に入っていきます。島本町は、古くから淀川回廊地帯の水陸交通の要所であり、奈良時代には山陽道の最も主要な都亭駅として『大原駅』が置かれていました。また、天平勝宝年間(749~757年)には聖武天皇の勅によって東大寺の荘園となり、このことは、「摂津国水無瀬絵図」としても記載されています。延暦4(785)年三国川の開通により、山崎の津は、長岡京、続いて平安京の外港となり、港を中心に西国の物資が運び込まれ、運送業者が活動し、物資保管のための倉屋や商家が立ち並んでいたともいわれています。
国道171号線を西に走り、高槻市へ入ると、車窓左手には淀川とほぼ並行する自然堤防上に幾つかの旧集落が見られ、淀川下流域に古くからある「段倉」を見ることもできます。また中心部に入ると、西国街道から旧高槻城内に至るまでの松並木が車窓から眺めることができるでしょう。その後バスは芥川を越え、国道から離れて北上します。この付近は高槻市郡家町。芥川の低位の段丘面に、かつては摂津国島上郡の郡衙が置かれていた場所でもあります。
午後の最初の見学地点は、高槻市北西部に位置する「今城塚古墳」となります。今城塚古墳は、6世紀前半に建造されたものであり、当時としては日本最大級の規模を誇っています。古墳は、全長350mにも及び、1958年には国の史跡に指定されました。今城塚古墳の西約1.5kmの場所に、全長226mほどの「継体天皇陵」とされている太田茶臼山古墳があります。『日本書紀』や『延喜式』などの史料によれば、継体天皇(ヲホド王)は531年に没し、その陵は摂津国嶋上郡にあったと明記されています。また、太田茶臼山古墳は、出土した埴輪から形成年代が5世紀中頃のものと推定され、近年の条里制研究によって、太田茶臼山古墳の所在は摂津国嶋下郡(現在の茨木市)に所在することがわかってきました。その結果、現在では、今城塚古墳が「継体天皇陵」であるという学説が定着しています。今城塚古墳は、現在まで5回にわたって高槻市教育委員会の手によって発掘調査が進められ、日本最大の家形埴輪(高さ約170cm)や多くの武人埴輪などが出土しており、今回の見学では、発掘現場近くまで見学することが可能ではないかと考えております。
次の見学地点は、今城塚古墳から西に約1kmほど離れたところにある「新地遺跡」です。この遺跡付近一帯のことを、「摂津國三嶋郡埴廬(はにいほ)」と記載した一文が『日本書紀』の欽明23(562)年の11月の条にあり、この地が大規模な埴輪生産地帯であったことがわかります。1988年からの本格的な発掘調査により、18基もの窯と竪穴式の工房が発掘され、また付近には工人達の集落もあったと推定されています。
▲旧西国街道芥川宿
最後の見学地は、解散地にほど近い場所にあるJR高槻駅周辺を予定しております。ここでは、西国街道の「芥川宿」を見学し、その後徒歩にて解散地でもあるJR高槻駅に向かいたいと思っております。芥川宿では、古びたべんがらの壁をもつ和蝋燭屋や一里塚、また、本陣跡などを街道沿いに見ることもでき、再開発事業が進む高槻駅周辺と対照的な景観を見ることができるでしょう。その後夜は一足早い忘年会で、鍋を囲んで懇親を深めましょう。
【山田 誠・紀 禎哉】