第27回巡検
加賀百万石の歴史地理―金沢城と城下町、伝統産業と北前船を訪ねて―
【日 時】 2002年5月19日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 屋敷道明 笠間 悟 府和正一郎 寺本 要 小面 裕 松浦直裕
【参加者】 64名
今回の巡検は、NHK大河ドラマ『利家とまつ一加賀百万石物語-』の舞台となっている金沢の城下町とその周辺を見学します。金沢城、金沢を代表する伝統産業の金箔、江戸時代に北前船で活躍した銭屋五兵衞の故地、そしてその五兵衞が幕末に干拓を試みた河北潟の干拓地というコースです。
集合は金沢駅西口です。金沢駅は以前は東口が正面玄関でしたが、駅高架化に伴い、西口も整備されました。現在駅西に新県庁が建設されていますので、どちらが正面玄関になるか分からなくなります。
最初に金沢市立安江金箔工芸館に向かい、ここで金沢を代表する伝統産業で全国のほぼ100%のシェアを誇る金箔について見学します。
この後、金沢駅東口を通り、西口と東口を比較しながら金沢城へ向かいます。途中、武蔵ケ辻(金沢第2の商店術)、尾張町(金沢城大手門前に広がる町)、大手掘(現在金沢城で唯一残る外堀)を車中から見学します。石川橋前で下車し、石川門から金沢市立玉川図書館専門委員の屋敷道明先生のご案内で、石川門、三の丸広場、本丸跡、三十間長屋、二の丸、内堀等、金沢城を1時間歩いて見学します。観光ではなかなか聞けない専門的なお話を開くことができると思います。1時間城内を歩きますので、そのような準備をしてきて下さい。ちょうど巡検が行われている日は旧二の丸跡で「加賀百万石博」が行われています。また、昨年開館した菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓も中を見学できますが、今回は時間がありませんので「加賀百万石博」や菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓の見学を希望される方は、前日宿泊して見学されると良いでしょう。
金沢城を見学した後、紺屋坂途中にあるラポート兼六で昼食を取ります。昼食後は石川橋前から再びバスに乗車し、銭屋五兵衞記念館へ向かいます。途中現県庁、市役所のある官庁街、中心商店街の香林坊、南町の業務街を通り金石街道を北上します。
銭屋五兵衞記念館は、江戸時代北前船で活躍した銭屋五兵衞について展示されています。1時間の見学を予定していますが、バス下車後各自自由に見学してもらいます。銭屋五兵衞記念館とバス駐車場の隣にある銭五の館の2つ見学地がありますので、時間を考えて見学して下さい。
この後、最後の下車地点内灘サイクリングターミナルへ向かいます。内灘砂丘の中でも最も高い場所にあり、さらに展望台もありますので、展望台から河北潟干拓地の様子を見学します。晴れれば白山や立山連峰も望めますので、望遠鏡を持参されるのも良いかもしれません。ここで河北潟干拓地の状況について説明があります。その後、河北潟干拓地をほぼ縦断し、最後に駅西大通りで新県庁舎も建設中の新都心を車中から見学します。
以下、いくつかのトピックについて個別に解説を加えます。
金沢箔
▲金沢の安江金箔工芸館
金沢箔の歴史は、文禄2年(1593)初代加賀藩主前田利家が秀吉の朝鮮の役の陣中より国元へ金銀箔の製造を命じる書を寄せたことに始まります。幕府は元禄9年(1696)江戸に箔座を設け全国の箔の生産と販売を統制しましたが、金沢城二の丸復興の折りに藩は京都から箔打ち工人を呼びました。その後金沢の箔職人たちは江戸や京都より購入した金銀箔の打ち直し、銅、真鍮箔の打立てを名目にして、金銀箔の隠し打ちを続けました。元治元年(1864)藩の御用箔が認められ、これを機会に金沢の金箔は技術的にも量的にも大きな発展をとげました。明治維新以後、金沢箔の生産販売も自由になり、職人1,500人、全国の生産の90%を占めるに至りました。このように加賀藩の美術工芸奨励策、そして真宗王国としての数多くの寺院の建立や、仏像、仏壇・仏具の需要に恵まれ、大きく発展しました。
用途は金屏風、織物の金銀糸、漆器の沈金・蒔絵、陶磁器の絵付けなど金沢の誇る伝統工芸品のほか、現在はグラス、アクセサリー、テレホンカード、化粧品など多くの生活品でも親しまれています。昭和52年(1977)には伝統的工芸品産業の用具材料部門で、初の通商産業大臣指定を受けました。
金沢城
金沢城は、加賀の一向一揆の拠点であった尾山御坊跡に天正8年(1580)に佐久間盛政が築城しました。佐久間盛政は尾山御坊に手を加えて城の形態を整え、金沢城と称しました。4年間の統治の後、同11年前田利家が能登の国七尾城から金沢城へ移りました。その後前田氏は金沢城を明治維新まで居城としました。
城の規模は南北663m、東西675mで堀を含めた総面積は約27.7haです。この面積は百万石大名の居城としては小さな規模です。しかし本丸、二の丸、三の丸、新丸、北の丸、東の丸など櫓の数は最も多い時期で20棟を数えました。櫓の数だけですと江戸城と肩を並べる偉容を誇りました。他に河北門、橋爪門、石川門、大手門といった門、越後屋敷などの役所・番所や土蔵・倉庫なども数多くありました。城の周囲には高い石垣が築かれ、石垣の外側には百間堀、いもり堀、白鳥堀、大手堀などが巡らされていました。
藩政期の建造物で現存しているのは石川門と三十間長屋だけです。その1つ石川門は金沢城の搦め手門で、石川郡の方向を向いているので石川門と称されました。門の形式は枡形門で表門、表門太鼓塀、櫓門、櫓、付属太鼓塀からなっています。これらの総称が石川門です。屋根は鉛瓦で葺かれています。石川門は宝暦9年(1759)の大火で焼失しましたが、再建は天明9年(1789)になりました。これは藩財政の再建が思うように進まなかったためです。今日では国の重要文化財に指定されています。もう1つの三十間長屋も国の重要文化財に指定されています。安政5年(1858)に再建された建造物です。城内にはこのような長屋が14棟あったと推定されています。昨年復元された五十間長屋もその1つです。現存するこの三十間長屋は二重二階建の多聞櫓で屋根は南面入母屋造、北面は切妻造となっています。石川門と同じく鉛瓦が葺かれています。この長屋はもともと干飯を蓄える軍備倉庫として使用されてきましたが、後には鉄砲蔵と呼ばれていたことから武器庫として使用されていたようです。
銭屋五兵衞
寛文の頃(1660年代)金沢の外港宮腰に住み両替商を営んだことから銭屋と称しました。文政9年(1826)頃から海運業に乗り出し、大小二百隻余りの船を持ち、江戸・大坂をはじめ各地30数カ所に支店や代理店を設けるまでに発展しました。また、加賀藩から銀仲棟取、問屋職、諸算用聞上役などに用いられるとともに、藩へのご用金も度々調達していました。御手船を建造し、加賀藩御手船裁許の役目にも就き、名字帯刀まで許されました。その頃、河北潟を20年で干拓することを計画し、嘉永5年(1852)から工事に着手しました。しかし工事は難航し、潟に死魚が出たり、それを食べた漁民が中毒死する河北潟事件が起きたことから、銭屋は毒を投入した疑いで投獄され、同年11月に80歳の高齢で獄死、その財産は没収という悲劇的な最後となりました。「銭屋五兵衞記念館」には銭屋の生涯を「銭屋の館」には銭五の本宅を移築再現しています。
金沢港
金沢港は昭和29年大野川河口の大野港と犀川河口の金石港を合併して成立しました。大野川河口(大野地区)は奈良時代から大陸との往来があり、渤海国の使節も来航していました。江戸時代には北前船が宮腰(金石地区)を拠点に活躍し、関西・東北・北海道との交易で繁栄しました。昭和39年に重要港湾の指定を受け、大野川右岸に掘込港湾の建設に着手し、同45年に開港しました。
金沢港は、金沢へ物資供給する流通加工基地、大陸対岸貿易の基地、水産加工基地、海難事故防止のための避難港、臨海工業基地としての役割を持っています。
取り扱い貨物は、昭和46年には92万tで、10年ごとに100万t増加し、平成12年(2000)には415万tです。輸移出入別では、移入が87%、輸入が9%、移入貨物は、石油製品が59%、セメント19%,重油10%、LPG10%。輸入品は原木が23%、ほかに糸・紡績半製品、石油製品、重油などで、輸入先は韓国が67%、ロシア11%、アメリカ10%です。
河北潟の干拓
▲河北潟と干拓地
河北潟は金沢市の北部にあり、周囲約27.3km、南北8km、東西4kmに拡がる面積約23平方kmの潟湖で、水深は浅く、最も深いところで約2.5mでした。日本海とは内灘砂丘をもってへだてられていて、湖水は湖尻の向莢崎あたりから南西に流れる大野川をもって日本海に排水していました。
河北潟は水深の浅い湖であることから、17世紀から沿岸部の部分的な埋立て、干拓が計画され実施されてきました。例えば、延宝元年(1673)、加賀藩により金沢から農家21戸を移住させ約3haの開田造成を行って開村した潟端新村(旧中篠村)があります。また上述のように、1850年代に20年間の計画で4,600石の開田を計画し埋立を開始しましたが、疑獄事件が発生して失脚した銭屋五兵衞の悲話が知られています。
近代に入って大正11年(1922)には河北潟埋立同盟会が結成されましたが、沿岸の漁業組合連合会の反対を受け、事業は始まりませんでした。第2次世界大戦後の食料不足の影響を受け、また沿岸農民の多年の願望もあって、昭和25年に金沢農地事務局により430haの干拓、1,130haの沿岸地上げ計画が立てられましたが、実施は見送りとなりました。同35年には、同事務局が河北潟干拓事業の全体実施計画に着手し、38年には干拓面積1,415.6ha、総事業費約62.6億円の計画をもって国営事業に着手しました。
新たに内灘砂丘を切って河北潟放水路を開削し、そこに防湖水門を設置するとともに公有水面2,248haのうち1,356haの干拓と潟周辺の農地3,275haの土地改良を行って、事業は昭和60年度に完成しました。事業着手以後の急激な社会情勢の変化によって、昭和52年、干拓地の土地利用計画が当初の水田から畑に転換されました。平成7年現在の農地利用面積は1,126ha(普通畑853ha、飼料畑226ha、施設用地47ha)で、農家数は242戸(酪農20戸を含む)を数えています。畑作入植者はおもに干拓地周辺の金沢市、内灘町、津幡町、宇ノ気町の1市3町から出耕作の形をとっていますが、酪農家は県内各地から入植し、畜舎周辺の住宅または畜舎2階に居住しています。
【笠間 悟・寺本 要・松浦直裕】