第26回巡検
南河内の歴史的風土
【日 時】 2001年12月2日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 出田和久 関口靖之 辰己 勝 野間晴雄 水田義一 楓 仁孝 森田恭二 山田 誠
【参加者】 80名
今回の巡検は、大和二上山麓を北から東にまわり、当麻町長尾を経由して竹内峠を越えて晩秋の南河内に入り、この地方の古代から近世に至る歴史的風土を味わいます。
近年、大阪の近郊住宅地として開けてきた南河内の地域は、イメージは比較的地味ですが、かつて古墳時代から古代にかけては日本の政治・文化の一中心であったともみられています。ご承知のように南河内には誉田山古墳(伝応神天皇陵)をはじめとする古市古墳群があり、さらに大山古墳(伝仁徳天皇陵)をはじめとする百舌鳥古墳群もかつての河内国にあります。記紀によれば、応神天皇以降、陵墓の多くや宮の一部が大和盆地東南部から南河内に移ることから、それまでの三輪王朝(天皇名に「イリ」を含むことからイリ王朝ということもある)から河内王朝(天皇名に「ワケ」を含むのでワケ王朝ともいわれる)に政権が交代し、河内に新王朝が成立したという河内王朝説が唱えられています。この河内王朝説については根強い批判がありますが、両者の説の基本的背景には、河内平野の開発を河内王朝の勢力拡大の動きとして捉えるのか、大和王国の河内進出の動きの中で理解しようとするのか、といった点での見解の相違があるように見受けられます。このことに関してみると、南河内の地域でも古墳時代中期以降、さかんに池溝の開削が行われたようです。『記紀』によれば「崇神天皇紀62年秋7月条」や「垂仁天皇記」に狭山池開削に関する記事が、「仁徳天皇紀14年冬11月条」に感玖(コムク)に大溝を開削する記事などがみられます。このほか史料には表れませんが、その痕跡が明瞭に残っている古市大溝の開削が古代には行われているようです。
これらの池溝開削を中心とする農業土木事業は、南河内の開発の画期となったと考えられますが、それはいつ頃のことであったのでしょうか。従来は古墳時代の中期から後期初頭と考えられていたのですが、最近ではもう少し新しいのではないかという見方が強くなってきたようです。古市大溝は、大和川の支流、石川左岸の氾濫原から段丘面上を羽曳野市と藤井寺市にかけて横切って走り、その全長は約10kmにも及びますが、その開削時期はよく分かりませんでした。はじめは5世紀に開削が始まったとみられていましたが、ルートが明確になるにつれて5世紀後葉の古墳を削っていることが明らかとなり、7世紀くらいではないかとの見方が力を得ています。
そして大和盆地への門戸である難波から河内を経て大和へ入るルートのうち重要なものである長尾街道と竹内街道が、南河内を平行に東西走しています。そのうちの南側を走り竹内峠を越えるのが竹内街道で、故岸俊男先生により丹比道に比定され有力視されていますが、一昨年に亡くなられた足利健亮先生はこれに異を唱え、竹内街道=大津道の可能性や丹比道・大津道両通が斜向道路であった可能性を指摘されています。
近つ飛鳥と聖徳太子墓
「近飛鳥」という地名は、『古事記』の「履中天皇記」にみえ、履中天皇の同母弟水歯別命(後の反正天皇)が、難波から倭(大和)の石上神宮に参向する途中で宿泊した地を名付けて、難波に近い方を「近(チカツ)飛鳥」、遠い方を「遠(トオツ)飛鳥」と名付けたといわれています。現在、石川の支流に飛鳥川があり、近鉄南大阪線の上太子駅付近に飛鳥という地名があり、「近飛鳥」はこの大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさしていると考えられています。
この近飛鳥の地は、難波と大和の飛鳥を結ぶ古代の要路、竹内街道の沿線にあたり、周辺には大陸系の遺物を出土する6世紀中葉以降の群集墳が多く分布しています。また、南部の磯長谷(シナガタ二)には、敏達・用明・推古・孝徳各天皇の陵墓指定地や聖徳太子など飛鳥時代の古墳が集まっていて、エジプトのそれとは随分とスケールに差がありますが、俗に王陵の谷とも呼ばれています。
▲叡福寺聖徳太子御廟
その磯長谷の一角、叡福寺の境内に聖徳太子墓があります。この墓は、直径約50m、高さ約10mの円墳で、周囲には二重に結界石が巡っていて、太子と母の用明天皇皇后穴穂部間人皇女、妃の膳部菩岐々美郎女の3人が葬られていることから「三骨一廟」の霊墓(御墓山)と言われています。叡福寺は太子追福のために聖武天皇の勅願によって神亀元年(724)に創建されたもので、太子信仰がさかんになるにともない、法隆寺や四天王寺とともに人々の尊崇を集めるようになりました。近世の『河内名所図会』には磯長叡福寺として、本堂とともに太子殿や御廟などが描かれ、俗に上太子といわれていたことも書かれています。以前は古義真言宗別格本山でしたが、現在は太子宗として独立しています。
近つ飛鳥博物館
1994年春に開館した近つ飛鳥博物館は、古墳時代から飛鳥時代にかけての文化遺産を中心に、「日本古代国家の形成過程と国際交流をさぐる」をメインテーマとして展示をしています。長さ約10mの大山古墳(仁徳陵古墳)の大復原模型や1978年に古市古墳群の三ツ塚古墳(藤井寺市)から出土して話題を呼んだ長さ約8.8m、重さ3.2tの大修羅など古墳時代と、上述した聖徳太子墓の横穴式石室の復原模型をはじめ各地の瓦や墨書土器、木簡(複製)など古代に焦点をあてた展示がなされています。建物の設計は、独学で建築を学び、東京大学教授となったことでも話題を呼んだ安藤忠雄氏の建築研究所の設計です。階段状の外形にも展望所としての実用性をもたせたというものです。
また、面積約29万平方メートルの近つ飛鳥風土記の丘は、代表的な群集墳である一須賀古墳群を保存し、その貴重な文化財に親しむ場として整備された史跡公園で、102基の古墳があり、そのうち40基が整備され、内部が見学できるようになっています。時間があればいくつか覗いてみるとよいでしょう。
なお、この羽曳野市飛鳥を含む駒ケ谷の一帯はブドウの産地としても知られています。ここのブドウは、大正中期以降に堅下(現柏原市)から移入されて栽培が盛んになったとのことですが、『河内名所図会』に富田林の名産としてブドウとブドウ酒があげられていることからすると、このあたりでは近世以来ブドウに馴染んでいたことが、急速に栽培が盛んになった遠因ではないでしょうか。関西本線が堅下や駒ケ谷のブドウを輸送するのに果たした役割は大きく、意外に思うかも知れませんが、大阪府は昭和前期には日本一のブドウ産地であったこともあるのです。駒ケ谷周辺には現在も多くのブドウ畑が広がっています。ついでに言うと、梅酒でおなじみの「チョーヤ(蝶矢)」はこの駒ケ谷が発祥の地であり、本社もここにあります。
富田林寺内町
▲富田林の寺内町
今では富田林というとPL(パーフェクト・リバテイ)教団の本部やPLの塔(大平和塔)、PLの花火大会の町として有名ですが、かつて富田林には、永禄年間(1558~69)に京都興正専門跡14世証秀上人によって創建された興正寺別院(浄土真宗)を中心とする寺内町が形成されていました。寺内町とPL教団、宗教の縁を思い浮かべると、地域における歴史的慣性の作用を思う人もあるのではないでしょうか。
旧寺内町の南端は石川の河岸段丘を利用した土塁、北端は堀割り(現在は暗渠)によって区画され、創建当時の六筋七町の町割りが残され、東西・南北とも約350mのかつての寺内町を彷彿とすることができます。富田林寺内町は、その歴史的景観を現在によく伝えていることから、平成9年10月には、国の文化遺産として重要伝統建造物群保存地区に選定されました。
寺内町は17世紀以降、幕藩体制の中で宗教色は次第に希薄になり、周辺農村地域の農作物の集散地として、また周辺農村地域へのさまぎまなサービスの供給地として、すなわち紺屋染物業・酒造業・木綿問星などを中心とする在郷町として発展しました。寛文8年(1688)の記録では、51職種、149の店舗が軒を並べていたといわれています。重要文化財に指定されている旧杉山家住宅や大阪府指定文化財の仲村家住宅(非公開)など、往時の繁栄を偲ばせる町家が残り、歴史的な景観を今にとどめています。
狭山池博物館
今回の巡検の最後に、今春3月28日にオープンした大阪府立狭山池博物館を見学します。池、それも溜池をメインテーマにした博物館は本邦初のものでしょう。狭山池は、最近の大規模な治水ダム化工事に伴う発掘調査によって、最古の木樋が7世紀初頭のものであることが明らかとなりました。また、狭山池中樋遺構の調査では、東大寺の復興に力を尽くしたことで知られる俊乗坊重源による狭山池改修の石碑が発見されています。その碑文には、狭山池は行基菩薩が天平3年(731)に築堤、樋を伏せたが、今は漏水し崩れてしまった。摂河泉三国の水下50余郷の人々の要請により重源が改修にあたり、石樋を伏せたことが刻まれています。この石樋は、大正末年からの大阪府による大改修の際にも見つかり、今回も発掘されたのは家型石棺を転用したものでした。その多くは加古川流域に産する龍山石でつくられ、大王級の大きさのものとされています。そのような石棺がどの古墳から運ばれてきたのか興味がもたれるところです。
このほか狭山池は17世紀初め、豊臣秀頼の命により片桐且元が改修をおこなっています。狭山池博物館では、先の調査の際に切り取った他の堤体が展示され、その地層から1400年にわたる狭山池の歴史が一目瞭然です。このような狭山池の変遷をはじめ、平成の改修後における狭山他の機能と役割のほか、狭山池のそばで生まれた故末永雅雄先生のあゆみと狭山池とのかかわりについての解説もあります。
狭山池博物館からは一路解散地点(および懇親会会場最寄り)の天王寺駅前を目指します。
【出田和久】