第25回巡検
北開東と南東北の自然と歴史的景観
【日 時】 2001年8月4日(土)~7日(火) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 一最芳秋 松田隆典 山田 誠
【参加者】 25名
1.東京から古河へ
昼過ぎに東京駅八重洲南口に集合し、巡検が始まる。首都高速道路に乗り、隅田川に沿って進む。途中、浅草付近ではビルの屋上に巨大な金色の雲のオブジェ(某ビール会社の広告塔)が見える。荒川を渡って足立区に入り、埼玉県八潮市・三郷市を経て常磐自動車道に入るが、このあたりも車窓からの観察のみとなる。流山インターチェンジを出てほどなく、利根運河が最初の下車見学地点である。この運河は、江戸時代に栄えていた銚子→利根川→関宿→江戸川→行徳一江戸という内陸水運をさらに活性化させることを目的として、明治中期にオランダ人技師ムルデルの指導により、利根川と江戸川の間を短絡するよう開削されたものである。開通後約30年間は「川蒸気」と呼ばれた汽船が銚子一東京間に運行されるなど、旅客・貨物の輸送にそれなりの役割を果たしたが、運河開通直後に千葉県内各地を結ぶ鉄道も建設され始めたことから、大正期には運河の通行量は激減し、昭和初期以後は通過する船もほとんどなく放置されていた。近年、利根川と江戸川の流量を調整する機能をもたせることとなり、それとの関係で河畔の整備も進められて、一部は公園化されている。ニューFHGではこれまで、イギリスやカナダの巡検で内陸運河をいくつか見学してきたが、それらよりスケールは小さいとはいえ、19世紀末の日本でも同様のものが造られていたことは興味深い。貴重な近代化遺産の一つといえよう。
利根運河の北西にある野田市は醤油醸造業で知られた歴史的都市である。今日でも大手のキッコーマン醤油の多くの事業所が都心部に広い面積を占めているほか、中堅のキノエネ醤油の工場もみられる。下車して見学したいところであるが、時間の都合で難しそうなのは残念である。
野田市を過ぎて関宿町に入る。江戸時代には利根川と江戸川の分流点に位置する城下町として、この地方の要衝であったところである。明治以降、地方行政上、千葉県(西関宿地区は埼玉県)に属してそれらの端に位置するようになったことや、江戸川の河川改修の結果、城跡のかなりの部分が河川敷になったことなどから、関宿は長い停滞の歴史を歩み始めた。近年、関宿町内には工業団地も建設されてはいるものの、基本的には今日も繁栄しているとはいいがたい。最近、本来の城の位置からは少し離れるものの、関宿城の形を復原した県立関宿城博物館がオープンし、この地方の近世・近代史をたどるのに大変好都合となった。短時間ではあるが入館して見学したい。
境大橋で利根川を渡り、茨城県境町に入る。ここも江戸時代には利根川・江戸川水運の港町(関東では、こうした集落を河岸「かし」と呼んだ)として栄えたところである。関宿城下の町家地区としての楼能の一部を分担していたということもできる。明治以後、鉄道交通から取り残されたことや、河川改修の結果、集落のかなりの部分が河川敷とされたこと、府県領域設定の際に所属県の末端部に位置づけられたことなども関宿と共通している。
境からは古河市に向かうが、宿舎へのチェックインの前に渡良瀬川を渡って渡良瀬川遊水池を短時間見学する。いうまでもなく、足尾銅山の鉱毒のために廃村とされた旧谷中村の跡地である。
以上、第1日日の見学ポイントは、近世から近代にかけての河川と人間活動の関係とその変化といったことになろう。
2.栃木:江戸(東京)と日光との中継点
足尾山地から南東に延びる数本の尾根のうち、地蔵岳と氷室山から延びる2本の尾根の間を永野川が流下し、北から巴波(うずま)川が合流する。戦国時代に両川流域一帯を領した皆川氏は、永野川とその支流の柏倉川に挟まれた尾根の先端に皆川城を築いた。皆川広照は天正(1580年代)に皆川城のほか巴波川左岸に栃木城を築き、町場も同時期に形成された。栃木の地名はこの時の町立てや築城に由来する。平安時代初期に町の南東の太平山中腹に円仁(下野国壬生出身の第3代天台宗座主)が創建したと伝える円通寺も築城予定の栃木城の南に移転された。
江戸時代初期の皆川氏除封により栃木城は破却され、城下町としての機能は失われたが、栃木町は例幣使街道の宿場町および巴波川の舟運の遡航終点として発展した。栃木の街道筋は町立てされた天正年間にはすでに「大通り」と呼ばれていたが、東照宮の宮号宣下により正保3(1646)年に日光へ奉幣使が派遣されてから宿駅が整備された。例幣使街道は中山道の倉賀野宿(現高崎市)から東へ分かれ、楡木宿(現鹿沼市)で壬生道に合う。あとは壬生道・日光街道を経て日光に至る。栃木宿の本陣や高札場は中町(現倭町)に置かれ、天台宗定願寺と浄土宗近竜寺(栃木町の商家出身の作家山本有三の墓所)が脇本陣にあてられることもあった。栃木町は幕府領・武蔵岩槻藩額などを経て、18世紀初頭より足利藩領となって幕末に至るが、足利藩の陣屋(現裁判所)は町と栃木城址とを結ぶ横町に置かれた。
▲巴波川の栃木河岸
巴波川舟運の遡航終点である栃木河岸は東照社が鎮座した元和年間に日光社参の御用荷物の運送を契機に成立した。日光御用荷物のほか、塩・塩合物・干鰯(金肥)・鮮魚などが利根川・渡良瀬川と遡り、下流の部屋・新波河岸(現藤岡町)で高瀬舟に積み替え、巴波川の栃木河岸で陸揚げされて、例幣使街道沿いに鹿沼方面まで流通した。下り荷には木材・薪炭・米などのほか、永野川上流の鍋山村の石灰や永野川の扇状地で栽培される大麻を加工した麻綱などの特産物があった。なお、鍋山で産出された石灰を栃木町まで輸送するための鍋山人車鉄道が明治33(1900)年に開通し、戦後トラック輸送に代わるまで利用された。
明治維新により下野国の旧幕府領・旗本領・日光神領などに日光県が置かれたが、足利藩管轄下の栃木城内村などが日光県に編入されるに及んで、日光から栃木町へ県庁が移転した。廃藩置県後に下野国南部は栃木県に統合され、県の新庁舎は栃木町の西、巴波川右岸に造営された。栃木町が巴波川舟運や例幣使街道によって物資の集散地として繁栄していたからであろう。明治6年に北部の宇都宮県と栃木県が併合されたのちも、明治17年に県央の宇都宮に移転するまで県庁が置かれた。現在の栃木の県名はこれに由来する。県庁跡(現市役所・栃木高校)には現在も県庁堀と呼ばれる長方形の堀が残っている。
明治21年に小山-足利間の両毛鉄道が、昭和6年には浅草-日光間の東武鉄道日光線が開通して、群馬県や東京との交通はしだいに鉄道が街道や舟運に代わる役割を果たすようになった。市街地南端に開設された栃木駅や新栃木駅は、栃木宿や栃木河岸に代わる結節点となった。しだいに東京-小山-宇都宮が物資流通の主流となり、高度経済成長期には栃木は栃木県の急速な工業化から取り残された。昭和47年に東北自動車道の岩槻-宇都宮間が開通し、栃木インターチェンジが設置されたが、県下で比較的に工業化の進展がみられなかった西部の栃木-鹿沼方面を迂回している。
3.日光:二荒山と東照宮
日光山は奈良時代に勝道上人が開山したといわれる。上人は大谷川北岸の山内に四本竜寺(のちの輪王寺)、捕陀洛山(男体山)に登頂ののち、中禅寺湖畔に二荒山神社中宮祠とその隣に中禅寺(明治35年の山崩れに遭い現在地に移った)を建立したという。補陀洛山が二荒山(ふたらさん)に転化し、それを音読みして日光山(にこうさん)となったという説がある。二荒山神社は山内にある本宮、中禅寺湖畔の中宮、男体山山頂を奥宮とする。
平安末期には天台宗の影響で常行堂など堂塔の整備が進められたが、日光別当職をめぐる争いが那須氏出身の禅雲と常陸の大方氏(小山氏の一族)出身の隆宣との間に生じ、四本竜寺など多くの寺院・社殿が消失した。将軍源実朝の信任を背景として大方氏出身の弁覚が別当職に就くと、新宮(現在の社殿)を造営し、四本竜寺に代わる日光山本坊として光明院を建立した。弁覚は熊野三山信仰を導入して日光修験を体系化し、日光は神仏習合の山岳信仰霊場として大いに繁栄した。室町時代には日光山は壬生氏との関係を深め、座禅院が日光山本坊となったが、壬生氏が豊臣秀吉の小田原攻めの際に北条氏に荷担したため、日光山の所領はほとんど没収されて衰退した。
日光山貫主となった天海により元和年間に徳川家康を祀る東照社が鎮座し、日光神領が寄進されて日光山は復興した。3代将軍家光は覚永年問に本社・陽明門などほとんどの社殿を造替し、今日の東照宮の姿がほぼ完成した。また、山内に散在する町屋を山外の東西に移転して門前町を形成した。大谷川に架かる神橋を境に、西町には日光奉行所・日代屋敷が並びその配下の役人や職人が住み、東町には日光街道の鉢石宿を中心に旅寵・土産物星が多い。さらに家光を祀る大猷院廟が造営され、日光神領は加増された。後水尾天皇の皇子守澄法親王が貫主となると、本坊光明院は輪王寺と改称され、以後明治維新まで、法親王が輪王寺宮門跡(併せて東叡山寛永寺・比叡山滋賀院を管領)を継承した。
明治の神仏分離令により輪王寺の移転計画が発表されたが、日光町住民の嘆願によって一部の堂塔を除いて移転を免れ、東照宮・二荒山神社との二社一寺の管理体制が確立した。明治初期に奥日光の女人結界が解かれ、門前に洋式ホテルが開業したりして、従来の日光参詣のほか国内外の多くの観光客を集めた。明治中期の日本鉄道日光線(宇都宮-日光間)や昭和初期の東武鉄道日光線の開通によって日光の観光地化が促進され、国立公園に指定された。奥日光への交通も明治末期に足尾の銅鉱の精錬所を清滝に設立した古河鉱業と日光町との共同出資による日光電気鉄道(日光駅-清滝間、まもなく馬返しまで延長)が開通して便利になったが、高度成長期には第1・第2いろは坂が完成して、マイカーによる奥日光の観光客が急増し、廃線となった。
4.会津若松とその周辺
国道121号線で県境の山王(さんのう)峠を越えると鬼怒川水系から阿賀野川水系となる。国道121号線がほぼ踏襲している旧会津西街道は若松と下野今市とを結んでおり、会津側からは下野街道または日光街道と呼んだ。また、南山(みなみやま)通りの称もあったように、南会津は南山と呼ばれ、近世は天領として支配されていた。阿賀野川上流地域の中心地田島は会津西街道の中央宿駅として栄えたところで、南山御蔵入の陣屋(代官所)が置かれた。明治11年、ここを通過したイザベラ・バードは、町並みは大そう美しいと感想を述べている。現在、東武鉄道が乗り入れており、東京浅草と直結している。
阿賀野川は大川の通称を持ち、下郷町楢原から湯野上にかけては大川ラインと呼ばれ、渓谷美で知られる。なかでも高さ約60mの奇岩が断崖をつくる塔のへつりは国指定天然記念物となっている。岩にはそれぞれ形状に似せて名称が付けられている。新生代第三紀層の凝灰岩・凝灰角礫岩・頁岩などの互層に比較的柔らかいところと硬いところがあるために、それが隆起に伴い河食・風化作用をうけて形成されたものである。
▲旧会津西街道・大内宿
会津鉄道湯野上駅から北西約6キロのところに、近世の宿場のおもかげをただよわせている大内がある。大内が会津西街道の一宿駅として整備されるのは近世の初期で、一般の屋敷は間口6間4尺、地坪6畝20歩に整然と割り付けられ、火除屋敷として所々に1軒分の空地を置いた。若松と田島とは1日の旅程であったので、大内はその中間点に位置していたことから、宿泊地というよりも旅人や馬方などの休憩地であった。会津藩主の参勤交代路であり、江戸への廻米路でもあったが、天和3(1683)年、地震による山崩れで五十里(いかり)宿(現栃木県藤原町)が水没し、通行不能となった。その後、若松からは白河経由の新道が開かれると、会津西街道の交通量は激減し、大内宿も大きな打撃をうけた。人々は畑作と駄賃で生計をたてていたが、明治17年、本道が阿賀野川沿いに開通すると、大内は完全に山間にとり残されてしまった。江戸末期から大きな火災がなく、藁屋根が道に並ぶ旧宿駅の景観は文化財的価値が認められ、重要伝統的建造物群保存地区となっている。
会津地方の中心都市会津若松は会津盆地の南東隅に位置し、市街地は吹矢山断層崖に近い湯川の渓口部に立地している。至徳元(1384)年、廬名直盛が小田垣(現在の鶴ケ城地東部)に館を築き、東黒川館と称したのが築城の始まりとされる。黒川は湯川の別称であるが、15世紀初頭にはある程度の規模の城下町が形成されており、それをも黒川と呼んだ。天正17(1589)年、磨上原(すりあげはら)の合戦で廬名義広に勝利した伊達政宗が黒川城に入ったが、翌年政宗は米沢に移った。その後の会津の地を豊臣秀吉から与えられた蒲生氏郷は、黒川を若松と改め、居城と城下の拡大・整備に着手した。濠と土塁でもって外郭を設け、これによって城下を郭内と郭外に分けた。居城を中心とした郭内には士族を、郭外には商工業者を集め、封建都市としての体裁を整えた。郭内の道路幅は比較的広く、東西と南北の各通りはほぼ直交していたのに対し、郭外の道幅は郭内のそれより狭く、東西方向の道路がその路幅だけ食い違うような遠見遮断を設け、防御に備えた。食い違いは現在も、漆器の名店が集まる大町札辻などにみられる。また郭内外の道路方向が5度ほど違っていた。外郭が取り払われた現在でも、不規則な継ぎ目が残っているので、かつての外郭の輪郭がわかる。
戊辰戦争で郭内の大部分と郭外町屋の3分の1が兵火で焼失した。明治32年に県内最初に市制を施行し若松市となったが、同年の岩越鉄道(現JR磐越西線)開通は、停滞的であった若松の市況に大きな刺激を与えた。なお、九州の若松駅(現北九州市)と混同されるので、大正6(1917)年、ここの若松駅は会津若松駅と改称するが、市名が会津若松となるのは昭和30(1955)年である。現在は再建された鶴ケ城を中心に、飯盛山など戊辰戦争にまつわる数々の史跡、名湯として知られる東山温泉や芦の牧温泉を擁する観光都市として、また磐梯朝日国立公園の一基地として、内外から多くの観光客が訪れる。漆器や酒造などの伝統産業が盛んである一方、ハイテク産業も立地している。
会津北部の中心都市喜多方は、近世、田付川を挟んで形成された双子都市的な在郷町(小田付と小荒井)を中心に形成された商業都市である。電源立地型のアルミニウム工業都市として、かつては高校地理教科書にも登場したことがあるが、現在は商況一般において、会津若松との格差はますます増大している。近年、「くら」の町喜多方としての観光開発に努力が払われているが、「ラーメン」の町のイメージがほぼ全国的に定着したようだ。
5.磐梯山と猪苗代湖・安積疏水
巡検最終日は、東山温泉を出発し、磐梯山ゴールドラインを経て檜原湖畔に向かう。この付近には他にも小野川湖・秋元湖、それに五色沼と総称される小湖沼群など、多くの湖沼があるが、いずれも明治21年の磐梯山大噴火の結果生まれたものである。この大噴火は近代日本の火山噴火史上でも最大級のもので、磐梯山北麓の山容を一変させただけでなく、少なくとも3つの集落を泥流で埋めつくし、500人近くの人命を奪った。今日では裏磐梯高原(あるいは単に磐梯高原)と呼ばれるこのあたりは、噴火後約60年にわたって放置されていたが、戦後になって開拓事業の対象となり、また高度成長期からは観光開発の進展が著しい。夏は避暑、秋は紅葉、冬はスキーというように、観光シーズンが長い点が強みである。
裏磐梯から猪苗代湖畔に戻り、安積疏水の取水ロを見学する。これは、潅漑用水に恵まれなかった郡山盆地の開拓を進めることを主目的として、オランダ人技師ファン・ドールンの指導により、明治10年代半ばに建設されたもので、完成後は発電にも利用された。琵琶湖疏水の直接のモデルになったものともいわれる。なお、第二次大戦後、別の取水口から新安積疏水が新設されている。
見学は以上で終わり、東北地方をさらにエンジョイしたいと希望される方(および福島空港等から家路を急がれる方)のためにJR磐越西線猪苗代駅前で一次解散とした後は、一路、最終解散地東京を目指すことになる。東京都内および周辺での渋滞に巻き込まれないことを願うのみである。
【一最芳秋・山田誠・松田隆典】
巡検報告
8月4日(土)