第21回巡検
平城宮跡と南山城の歴史的景観を訪ねて
【日 時】 1999年12月5日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 乾 幸次 池田 碩 山田 誠 高橋誠一 植村善博 辰己 勝 南出真助 出田和久 野間晴雄 藤井 正 関口靖之 磯永和貴
【参加者】 69名
今回は平城宮跡・奈良国立文化財研究所を見学したのち、京都府南部の南山城(やましろ)地域の巡検が中心になります。古代より栄えた木津川流域の歴史的景観を訪ね、さらに、近代的開発の諸問題にふれます。
さて、南山城とは歴史的概念であって、歴史的にも地理的にも一つのまとまった地域をなしている。ここは、瀬戸内海→淀川→木津川をさかのぼる大陸文化の北廻り、大和入りのルートをなしている。大陸からの渡来人が多く住みつき、冶金、古墳築造などの技術をつたえ、高麗寺(こまでら)・下狛寺などを造営しており、古代の南山城は、大和とともに文化の先進地域をなしている。
中世以降の南山城は、奈良・京都の両古都の高い文化を受容しながら文化の発展をつづけている。このような歴史的背景をもつ南山城の地域は、過去のさまざまな時代の歴史的景観が、年輪のように刻みこまれていて、いまも生き続けている。
今日の南山城は、京都・奈良の両古都や大阪市へは20分~30分の圏内になってきた。21世紀の南山城は、「関西文化学術研究都市」や京都市・城陽市・京田辺市を中心として、日本の文化・学術センター地域として発展してゆくところとなってきた。
▲平城京朱雀門(平城宮跡)
平城宮跡は大正11年(1922)史跡に、昭和27年(1952)特別史跡に指定され、昭和45年(1970)平城宮資料館が完成して、宮域買上地の保存整備事業が軌道にのる。宮跡に復原された朱雀門は、白鳳様式で設計されたが、細部は東大寺や法隆寺など現存する古代建築の特徴がとり入れられている。
平城宮跡を発する車は、国道24号線の奈良坂をこえて木津町に入る。この道路は、平城京東極より山背国(山城国)に入る古北陸道のルートを踏襲している。
木津町は、古代においては平城京の外港・泉津として栄えている。平城京や南都東大寺・興福寺などの大寺院造営のための大量の用材の陸揚地で、この泉津に設営された官衙施設の「上津遺跡」は、木津町教育委員会で発掘調査が行われ、保存されている。
車は木津町より恭仁宮へむかう。恭仁京は木津川横谷の瓶原に天平十二年(740)造営がすすめられたが、天平十五年(743)に造作が停止され、わずか三カ年の短命な都であった。廃都後の天平十八年に恭仁京大極殿は山城国分寺に施入されている(続日本紀の史料による)。
恭仁宮域の発掘調査は、故足利健亮先生の指導のもと京都府教育委員会により続けられ、内裏・大極殿・朝堂院が確認されている。なお、平城京を発して恭仁宮へ通じる「賀世山西道」は、『続日本紀』にみえるが、このルートについては諸説がある。
恭仁宮跡より西へすすむ車窓から、木津川段丘に狛人が建立した高麗寺跡がみえる。塔跡・金堂跡には心礎や基壇が発掘され、飛鳥期から平安期の瓦も出土した。この高麗寺跡より国道24号線に入ると、旧上狛町、旧高麗村(現山城町)の集落は、『和名抄』にみえる「相楽郡大狛郷」で、対岸の木津川左岸にも旧狛田村・下狛村(現精華町)がみえる。
24号線に沿う井手町大字井手の地は、詩歌によまれた山吹の里で、聖武期に左大臣橘諸兄が居館を構え、玉井頓宮が設けられた。また、橘諸兄 が建立した「井堤寺」は橘氏の氏寺である寺跡を保存している。江戸時代には、古代の古北陸道の歴史をうけついでいる大和街道に玉水宿駅(現井手ロ)がおかれている(大和街道には六地蔵・長池・木津にも宿駅がおかれている)。
さて、木津川流域の古墳は、木津川の水上交通路を支配しうるところを占拠しているものが多い。代表的な古墳は下車して見学する山城町の椿井大塚山古墳、城陽市東部丘陵に広く分布する久津川古墳群、木津川左岸では、八幡市から南の田辺町の丘陵地に分布する古墳群、田辺飯岡孤立丘陵に集中する飯岡古墳群がある。
椿井大塚山古墳は、衆知のように、前期の代表的な前方後円墳で、木津川の低地(陸路)と水上交通を支配しうるところに立地している。
明治27年京都~奈良の鉄道敷設工事のさいに後円部から大量の副葬品が出土した。とくに、石室から37面にのぼる船載鏡が出土し、被葬者の権力の強さが知られる。(最近、山城町教育委員会が発掘調査を行っている)。
国道24号線を北上する車窓からみえる木津川右岸の天井川(不動川=山城町・玉川=井手町・青谷川=城陽市)の川幅は、左岸と比べて大きく、かつ木津川へ直線状で直角に注いでいる。これは木津川河谷平野右岸と左岸の地形的差異による。右岸は断層崖下に扇状地と段丘が河岸まで迫っているのに対し、左岸は丘陵と谷底平野が広がっているためである。また、天井川の北限は等高線でほぼ18.5mの線(右岸の長谷川=城陽市観音堂、左岸の平原川=田辺町三野)となっている。
なお、井手の天井川の玉川は昭和28(1953)年8月の集中豪雨(南山城大水害)で、玉川の堤防が約400m(井手段丘裾から木津川堤までの平地の堤)流出し、死者108人・全壊家屋270戸、半壊家屋750戸の大被害を出した。
▲木津川流れ橋
車は国道24号線より山城大橋を渡って、左岸の京田辺市に入り、さらに府道「八幡木津線」を北へ進み、木津川下流にかけられた木造の「流れ橋」で下車する。この橋は、八幡市と久御山町を結んでおり(長さ356m・徒歩5分)木津川の出水毎に橋脚のみを残して木の橋は流される。なぜ、永久橋を造らないのかと思うが、この付近は旧巨椋池南岸の低湿地で洪水常襲地であったので、木津川の大出水時に、堤防の決壊を防ぐためである。
「流れ橋」をあとにした車は、旧巨掠池干拓地西方の一口(いもあらい)付近を廻り、堤防集落を観察する。
さて干拓前の巨椋池(周囲16km・総面積800ha)は、山城盆地のもっとも低いところに位置していたが、昭和8(1933)年から8カ年の歳月をかけて昭和16年に干拓事業が竣工し、姿を消した。
この干拓地は京都・大阪市に近く交通条件に恵まれているので、早くから住宅地へ、さらに商業団地へ、工業地へと変容しつつある。
ところでこの干拓地とその周辺部は災害に弱い潜在的土地条件をもっている。昭和28年の大水害は、宇治川左岸が決壊して、干拓地とその周辺部の等高線15m以下が水没し、かつての巨椋他の遊水機能を思わしめた。
災害後の治水対策としては、建設省は天ヶ瀬ダム・高山ダムの築堤・南郷洗堰の改善、一口に排水機場を新設して防災工事をすすめている。しかし、都市化の進展による河川の流量増大がみられる今日、巨椋池干拓地は安全であるといいきれるであろうか。
この干拓地のみでなく、南山城全域の今後の近代的開発は、この地域の自然環境とくに、地形そのもののもつ性格を的確に把握して、人間生活を豊かにするような土地利用をすすめていくことが、もっとも重要な課題である。
【乾 幸次】