第18回巡検
初夏の河内平野中部を巡る
【日 時】 1998年5月24日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 浮田典良 安井 司 山田 誠 高橋誠一 正木久仁 辰己 勝 野間晴雄 原 秀禎 金井 年 関口靖之 藤井 正
【参加者】 76名
河内国は、かつては16の郡に分かれていましたが、明治29(1896)年に、北河内、中河内、南河内の3郡に再編成されました。今回のコースでの下車地点は、一部が北河内郡、大部分が中河内郡です。
ごく大ざっばに言うと、河内平野は「南乾北湿」でした。現在の近鉄奈良線以北は低湿地帯で、古来「水害」に悩まされました。多くの排水路が走り、それが舟運にも役立ちました。江戸時代になると水田の二毛作が普及し、裏作として菜種作が発達しました。“野崎詣りは屋形船で参ろう。どこを向いても菜の花ざかり・・・”という歌があります(お染・久松を扱った映画の主題歌だったと思います)。今回訪れる野崎観音あたりが水運の盛んな地帯であったこと、そして菜種作地帯であったことを示しています。
一方、現在の大和川以南の南河内は和泉に続く台地で、古来多くの溜池が築造され、雨が少ないと「旱害」に悩まされた地帯でしたが、この南河内には、今回は行きません。
その中間、近鉄奈良線と現大和川に挟まれた地帯が中河内ですが、ここは、「旱害」と「水害」の両方に悩まされた地帯でした。
江戸時代中期まで旧大和川は南東から北西に流れて玉串川と長瀬川に分かれ、玉串川はさらに菱江川と吉田川に分かれて深野池と新開地に注ぎ、これらの水はその後西へ流れ出て再び1本の川になり、上町台地の北縁で淀川に合流していました。
この大和川は潅漑用水として重要でしたが、上流の大和で取水されてここでは水量が少なく、中河内は水不足に悩まされました。
しかし、大雨があるとしばしば堤防が決壊して、中河内の平野部は水害に悩まされました。そこで宝永元(1704)年、石川合流点から真っすぐ西へ向かい、堺の北で大阪湾に注ぐ新しい流路に付け替えられたのです。その付け替え地点に午後参ります。
▲鴻池新田会所跡
付け替えの結果、旧流路のうち河床であった部分は開拓されて新畑となり、二つの池は干拓されて新田となりました。新開池の干拓地が「鴻池新田」です。大阪の豪商、鴻池家によって干拓されたこの新田の「新田会所」が昨年9月から一般公開されたので、今回の巡検で午前にまずここを見学します。
旧大和川は水運にとっても重要で、沿岸にいくつもの河港がありました。その一つ「久宝寺浜」のあった久宝寺は、蓮如上人が開いたとされる浄土真宗本願寺派の顕証寺の寺内町で、ここを午後のコースの最後に訪れます。
なお、新大阪駅で解散後、小林健太郎先生の「思い出を語る会」を開きます。どうぞこの会にも多数ご参加下さい。
【浮田典良】
野崎観音への参詣
▲野崎観音
河内平野縁辺にあたる生駒山地西麓には創建が古代起源と伝える社寺が並んでいる。その一つが野崎観音と呼ばれる慈眼寺である。
この寺は山号を福聚山といい、現在は曹洞宗となっており、由緒は宝永5年(1708)に鋳造された釣鐘に詳しい。行基が開祖で本尊の十一面観音は行基の手彫りという。平安時代中期に江口の君が慈眼寺に詣って難病が治った。そのため当時淀川低湿地の嶋頭(現門真市)にあった境内地を現地に移し再び建立したので、江口の君を中興の祖と呼ぶようになった。東高野街道が南北に伸び、それを眼下に見下ろす飯盛山城と連動した野崎城の一角に境内地が位置していたこともあり中世に戦火にあい、慶長・元和年間(1596~1624)に青厳が曹洞宗の寺として復興したなどと伝えている。
宝永元年(1704)に大和川が付け替えられ深野池や新開池が干拓され、付近の景観が一変する近世中期頃以降に大坂からの参詣が増加してくる。野崎小唄で「野崎参りは 屋形船でまいろ どこを向いても 菜の花ざかり 粋な目がさにゃ 蝶々もとまる 呼んでみようか 土手の人」とうたわれているように、大坂からの参詣者は旧大和川・寝屋川の船を利用したり、川沿いの堤を歩いて、鴻池を経て野崎へやってきた。また、近松門左衛門の浄瑠璃「女殺油地獄」など近世の文芸でもいくつか野崎が舞台となるものが著され、さらに参詣者を呼ぶようになった。
大坂から近距離で、川筋を使った水陸の交通アクセスが整っていたこともあって、賑わいをみせることになった野崎は、近代になってもほぼ同じルートで建設された鉄道で大阪と結ばれた。この鉄道は昨年東西線開通にともない起点の片町駅が廃止された元JR片町線(愛称:学研都市線)である。
近年は大阪大都市圏の一角として都市化がすすみ、観光地としての性格は失いつつあるが、毎年5月初句の野崎参りは盛況である。
【関口靖之】
久宝寺寺内町
現在の八尾市域には3つの寺内町がある。久宝寺・萱振・八尾である。このうち八尾寺内町は完全に現八尾市の中心地街に変貌して往時の面影はとどめておらず、萱振も町の中心部を通る道路が拡幅されたりして、近年の改変が著しい。その点久宝寺は街路形態も近世の絵図に見るものと殆ど変わっておらず、土塁や環濠の跡も、部分的ではあるが残存している。今回の巡検コースにこの地を選んだのはこういった理由による。次に久宝寺寺内町の歴史について概観しておこう。
文明2年(1470)、この地に布教した蓮如上人は「帰する者市の如し」(大谷本願寺通紀)といわれる程多くの信者を獲得し、一寺を建立した。これが西証寺である。そして蓮如の第24子実順が入寺したがあとを継いだその子実真が早世したので、大津顕証寺にいた蓮如の第6子蓮淳が住持となって名を現在の顕証寺に改めたという。ただし寺の創建については由緒書にも明応年中と記したものと文明年中と記したものとが存在し、近世には詳しい事情が不明になっていたことが窺える。
なお久宝寺という地名は聖徳太子開基と伝える真言宗の寺があったことに由来するが、今は全くその痕跡はとどめていない。場所は現在の許麻(こま)神社の地であったらしい。蓮如が来た当初は寺はまだ存在していたようで、次の歌が詠まれている。「年つもり五十有余をおくるまできくにかはらぬ鐘や久宝寺」
久宝寺は近世に入ると在郷町として変貌をとげるが、享保をすぎる頃から人口の急激な低下を来たし、明治に入るまでその傾向は続いていった。宝永元年(1704)の大和川つけかえにより旧大和川(現長瀬川)の流れが減少して舟運に支障が出たことが大きな要因であると『八尾市史』は述べている。
現在八尾市は市制50周年の記念事業の一環として、寺内町内部の町並みの整備をすすめている。その一端も御覧いただけよう。
【金井 年】