第16回巡検
六甲山と神戸から西宮ヘ―山の地形と街の復興―
【日 時】 1997年5月25日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 池田 碩 藤岡ひろ子 辰己 勝 藤井 正 小泉邦彦 紀 禎哉
【参加者】 80名
兵庫県南部地震(1995年1月17日)から、2年と2ケ月あまりが経過しました。いまだ仮設住宅での不便な生活を余儀なくされている被災者の方も平成9年1月現在で3万7千世帯、7万人以上もおられ、5万人の人たちが県外に流出したままといわれます。かなしい思い、無力感は、消えるものではありません。市街地では倒壊した家屋の跡を示すアキ地が各地に残っています。しかし一方では、主要交通機関の全てが復興したのをはじめ、港湾施設や都心などを中心に急速に復興しつつあり、新たな事業にまで展開しようとする状況です。
▲六甲山蓬莱峡周辺の崩落跡
そこで、今回は、季節的にも巡検に最適な若葉の頃であり、震災の全体像や復興の現況にせまれるように、コースを設定してみました。まず新大阪から千里中央を経て宝塚へ、車窓から傾斜地の住宅造成をながめつつ、大阪や新しい住宅地における被害状況など説明します。ついで、六甲山における地震の激しい影響を蓬莱峡を中心に説明します。これらは旧市街の大きな被害の陰に隠れていたものですが、地震・震災の自然・人文地理学的全貌把握には欠かせません。つぎに通る六甲ドライブウェーも、下見の直前の2月はじめにやっと開通しました。地震による崖崩れで道路付け替えなどが行われています。12センチ高くなった山頂も近い昼食会場からは、好天であれば神戸の街を展望できます。眼下に東灘区の市街地、その先に六甲アイランドが見えます。
午後は、表六甲ドライブウェーを山から市街へ下り、灘区から新神戸へ抜けます。灘・東灘の震災の光景や新神戸駅下の断層が頭をよぎります。新神戸からは、旧生田川のルートを三宮へ、にぎやかさを取り戻した三宮の街ですが、修理中の建物、建て替わった建物、なくなった建物にも気がつきます。旧居留地の東から南へ、メリケンパークで休憩をかねて下車、見学します。ポートタワーも、超高層のホテルオークラができて小さく見えますが、向かいのハーバーランドとともに、今も神戸のシンボルゾーンです。南にはポートアイランドのコンテナバースも見えます。
▲六甲アイランドの仮設住宅
再びバスで、東部新都心開発地区、がれきで埋め立てられている摩耶埠頭等をながめつつ、もっとも多くの犠牲者を出した東灘区旧市街地から六甲アイランドヘ向かいます。一戸建てから超高層マンションまで揃った近未来都市の合間に、2100戸に約4000人が住む仮設住宅の現実があります。次に阪神高速湾岸線を西宮へ、西宮も千人以上の犠牲者をみました。その中でも大きな被害を見た地区の現況を見て、避難所となった中学校で説明を聞きたいと思います。JR・阪神の西宮駅解散の予定です。
別掲の6名が一応現地説明を担当しますが、参加者の中にも、震災とのかかわりをお持ちの方や、神戸への思いのおありの方もいらっしゃるかと思います。コースの途中、どうぞ適宜応援をお願いいたします。(事務局編著)
神戸~開発と災害~
かつて藤岡謙二郎先生を中心にFHGでつくった『近畿野外地理巡検』(古今書院、1983)の巻頭に、ふるい神戸という写真がある。これは、当時は艀(はしけ)だまりだった現在のメリケンパーク(今回下車見学予定)あたりから、中突堤先端の倉庫(現在はメリケンパーク・オリエンタホテル)に向かって撮影したもので、その向こうには川崎の造船所のクレーンが見える。この写真は現代の港湾都市の変化を象徴的に示している。
メリケンパークは、神戸の居留地先のメリケン波止場と中突堤の間(先の写真の艀だまり)を埋めて整備された。古代からの港、兵庫に対し、神戸は、安政の条約による1868年の開港である。明治7(1874)年開業の神戸駅は、両者の中間に位置する。和田岬が西からの風波を防ぐ良港であったが、その発展には最初から自然改造が絡む。旧湊川(=新開地から上述の川重造船所)や旧生田川(新神戸から市役所東側、現フラワーロード)は、既に水害や港への土砂堆積をもたらすものであった。1873年には生田川が、居留地東の境界の位置から約1km東の現ルートヘ、湊川は1905年に西の長田へと付け替えられた。その後、この神戸居留地前の海岸部を中心とする近代港湾の整備、その周辺の工業化(臨海部の重工業化、内陸での関連中小工業の立地展開)がすすみ、神戸は六大都市の一角をなす。都心は、次第に兵庫から東へ向けて転移した。(詳細は、藤岡ひろ子先生の『神戸の中心市街地』(大明宝、1983)を参照。)こうして形成された先の写真の「ふるい」神戸も、いまやメリケンパークなど都市観光の中核となっている。港湾物流のコンテナ化は、艀や鉄道、多くの港湾労働者を不要とし、巨大コンテナ船自体が着岸し大型トラックやリフトが走り回る広いコンテナバースを、新たな埋立地に求めさせた。櫛型の港や貨物駅は、都心に近いウォーターフロントの再開発地域となったのである。
また、神戸は震災以前から災害の街としての不幸な歴史を持つ。狭小な海岸部の市街地は過密となり、傾斜地の開発が進められてきた。しかし六甲山は断層群に加え風化しやすい花崗岩であり、昭和13年の山津波では死者616名、市街地の6割、人口の7割の罹災をみた。「山、海へゆく」という神戸の戦後の開発事業には災害対策の側面もあった。崩れやすい山を削平し安全な住宅地等とする一方、その土砂で海を埋め立て、新たな港湾・都市機能用地をうみだしてきたのである。神戸は戦災の被害も大きかった。しかし、今回の震災で、大きな被害をみた地区のひとつは、皮肉なことに、老朽家屋の比率の高いこの時の非戦災地区であった。東部では、灘区の六甲道周辺、東灘区の魚崎、西部では長田がこれにあたる。現在、こうした地区ではまだまだ空き地が多く、屋根瓦のない新建材の住宅が目に付く。産業施設、交通などが順調な復興をみるなか、ケミカルシューズは5割、住宅は3割という復興の部門間の、また地域間の「まだら模様」を小森星児先生は示している(統計1996年11月号)。これは、従来表だっては見えなかった都市の経済・社会的な「模様」である。都市における自然(海・山・地形)と人間活動の関係、震災で顕在化したこの社会・経済的な「模様」について、神戸でわれわれは考えることができる。
【藤井 正】