第15回巡検
晩秋の長谷寺・大和高原散策
【日 時】 1996年11月24日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 小林健太郎 野崎清孝 千田 稔 高橋誠一 出田和久 野間晴雄 関口靖之 佐野静代
【参加者】 70名
大和高原の巡検は旧FHGの第2回(66年6月)以来、30年ぶりです。紅葉の長谷寺と東山中を一日バスでめぐります。集合は近鉄・八木駅で、ここから国道165号を東進。初瀬川の谷筋の山腹に、西国三十三カ所の八番札所、真言宗豊山派総本山の長谷寺があります。観音信仰で隆盛し、文人・庶民の信仰が厚かった長谷寺は、ボタンやアジサイで有名ですが、紅葉も絶景です。門前町初瀬は伊勢街道の宿場を兼ね、狭い参道には年季の入った土産物店や食堂・旅館などが軒を連ねます。山腹の登廊の上には舞台造りの本堂があります。東の山は長谷寺の寺領で、スダジイ、コジイなどの照葉樹林の極層が保全された与喜山暖帯林(国の天然記念物)です。長谷寺からバスに戻り、榛原の市街にはいる手前の西峠(「記紀」の墨坂)のドライブインで昼食です。
▲三陵墓東古墳
午後は額井山・貝ケ平山など、新第三紀の室生火山群に属するこんもりした山容を車窓に見ながら、一気に大和高原へ。大和高原ほ四方を断層によって区切られた標高500m前後の隆起準平原で、南部が高くなっています。しかし白右、針付近には意外と広い水田が開け、低い丘陵に囲まれた小盆地です。南庄の三陵墓東古墳は都祁の首長クラスの墳墓、甲岡の小治田安方侶の墓は明日香村を出自とする蘇我氏の同族の墓で、平城京の右京3条2坊に住んだ有力者です。この墓がある小丘陵に鎮座するのが延喜式内大社の都祁水分神社で宇陀・吉野・葛城とならぶ大和四水分社のひとつです。小山戸の都祁山口神社は都祁直の子孫が神職を務める古社。道路が狭いので、今回は都祁水分神社を見学し、あとの遺跡・神社は遠望にとどめます。
都祁野盆地のあと西へ車を進め、天理市福住の都祁氷室跡を見学します。氷室神社の東方の室山と呼ばれる小山の上の2つの竪穴が遺構です。ここで冬の氷を夏まで保存し、朝廷へ献上しました。都祁の氷室は「日本書紀」にも記載され、かの長屋王邸に運んだ記録の木簡でも著名です。この遺跡、宮都に近い寒冷な山間地域という、氷室の古代的立地条件にかなっています。
氷室のあとは、名阪国道(国道25号)を神野ロインターまで走ります。この道路は大阪と名古屋を短絡するだけでなく、大和高原の産業開発も企図したものです(65年に開通)。インターからは北上し、つつじの名所、神野山(619m)へ。途中、山腹を利用した茶畑や、伊賀方面の眺望をご満喫下さい。鍋倉渓はこの山をなすハンレイ岩が数百メートルにわたって川原石のように連続する奇勝です。
神野山からは布目ダムを臨みながら、水間峠、そして最後に古事記の編纂者として著名な太安萬侶の墓を見学します。この国史跡は茶畑の中から79年に偶然発見され話題になりましたか、今は静寂の佳境。そこから春日山断層崖を一気に下り、夕やみの奈良へ。夜は一足早い忘年会で、鍋を囲んで懇親を深めましょう。
【野間晴雄】
長谷寺と門前町
桜井の町から初瀬川に沿って遡ると、牡丹をはじめ「花の寺」として知られた長谷寺に至る。長谷寺は真言宗豊山派の総本山で、西国観音霊場第八番札所。川原寺の道明上人が、朱鳥元年(686)頃に西の岡に開いた本長谷寺にはじまり、東の岡には神亀4年(727)に徳道上人が十一面観世音菩薩像を祀り、天平19年(747)に観音堂が落慶したという。この観音像は霊験あらたかで、称徳天皇が神護景雲2年(768)に参詣し(「続日本紀」)、承和14年(847)には定額寺に列せられた。観音信仰に支えられてとくに女性の参詣が多く、「源氏物語」や「枕草子」にもみえ、藤原道綱母や菅原孝標女なども参詣している.その後は、伊勢本街道筋にあたっていることから庶民の長谷詣が盛んになり、狭い谷間に門前町が形成されていった。
『宇野主水記』には「山ふところ也。まづ在家二三町モツヅキテ左右方々町屋ノゴトクツクリナラベテ、二百計モ家アル也。旅宿ナドモスル也」(天正11年2月11日条)とみえ、既に門前町の形成が進んでいたことが知られる。現在は、国道165号線との分岐付近から仁王門の前まで1キロほど門前集落が続いている。なお、寺の東、与喜浦背後の山は国の天然記念物「与喜山暖帯林」となっている。
【出田和久】
都祁の遺跡
▲都祁水分神社本殿
国中から離れた都祁の地は、「闘鶏国造」の本貫地として、いわば独立した地域であった。中でも白石・南之庄・甲岡には遺跡が集中している。以下、簡単に列記しておく。
甲岡西側の森のなかに大和四水分社(都祁・字太・吉野・葛城)の一つである都祁水分社(祭神速秋津彦命・天之水分神)が鎮座している。能舞台・拝殿と重文の本殿(室町時代)があり、由緒は古いが現在地には971年(天禄2)に遷宮されている。
この水分社から南方の並松小学枚南側一帯がゼニヤクポ遺跡である。1980年と1985年、校地拡張にともなう調査が行われ、弥生前期から古墳時代前期にかけての住居跡が多数発見された。円形から隅円方形そして方形へという住居形態の変化が指摘されている。
甲岡南斜面に小治田安萬呂墓(国史跡)がある。1912年(明治45)開墾中に桧製の木櫃と基誌、和銅開宝が発見。墓誌によって平城京右京三条二坊に住んでいた小治田朝臣安万呂の火葬墓であることが明らかとなった。
南之庄に三陵墓とよばれている三基の古墳がある。東古墳は大和高原中最大の前方後円墳で、粘土槨内から鏡・硬玉製勾玉、碧玉製菅玉、めのう製勾玉、刀剣類、鉾、鉄鏃の出土が伝えられる。1989年から墳丘整備のための調査が行われ、その結果全長110m、後円部の径66m、前方部幅40mという規模をもつことか明らかとなった。西古墳は1951年に発掘調査された古墳で、直径40mの円墳でこれも高原中では最大級の規模。割竹形木棺を納めた粘土槨などの存在が判明している。南古墳は直径16mの円項。
【高橋誠一】
都祁の氷室
奈良・平安朝の貴族は、現在の我々と同じように、夏には氷で涼を楽しんでいたらしい。これは冬の間に池に張った氷を取っておき、夏期まで貯蔵するものであった。その貯蔵庫は氷室と呼ばれ、地面を縦に堀り、底に茅・荻を敷いて、上部を草で覆った構造であったという。平安期の『延喜式』によれば、朝廷へ氷を貢納していた氷室は、大和・河内・近江・丹波にわたり、計9カ所記録されている。このうち、最も古い由緒を持つとされるのが、大和国山辺郡の都介氷室である。
『日本書紀』仁徳天皇条にその由来が描かれており、額田大中彦皇子が闘鶏に猟に出かけた折に、闘鶏稲置大山主の持っていた氷室を見出し、天皇へ氷を奉ったのが始めとされている。
都介氷室の旧跡といわれる遺構が、天理市福住町の室山に現存している。氷室は、室山の尾根上の2つの竪穴であり、深さ2.5m程の摺鉢状を呈している。遺構の西方には、闘鶏稲置大山主らを祭る氷室神社も存在する。近年、平城京の長屋王邸跡から、「都祁氷室」からの氷の貢納を記す木簡が出土しており、当時の氷室の実態が明らかにされつつある。
【佐野静代】
神野山と鍋倉渓
山頂に王塚という円墳をもつ神野山(618.8m)は大和高原の信仰の山の一つである。麓には伏拝という地名をもつ集落もある。5月の九十八夜には付近の集落から人々が山に集う神野山参りも行われている。
この山の南側の斜面にある神野寺は、聖武天皇の勅願により行基開祖の伝承がある。山号を髪生山といい、神野山同様に「かみのやま」から音韻が変化してできあがったと考えられる。神仏習合の雰囲気をもった山は『三代実録』にも記載がみられ、平安時代前期に宗教施教としての体をなしていた。中世末期には箕輪・堂前・助命・伏拝・北野の入会山となり、近世には大塩・下深川が加わって山郷を形成し、山論が何回か発生した。
明治10年(1877)の落雷により焼失した神野寺は再建された。本堂の北東に鎮座していた春日神社は、明治43年(1910)に大塩の八桂神社に合祀された。
神野山は三輪山同様に班?岩で構成されている残丘である。明治中期に神野山保勝会も結成され、つつじの神野山として観光宣伝された。山の東側斜面に形成される鍋倉渓は表土が流出して、班?岩の礫が露出したものである。伏流水は「やまとの水」に指定されている。1957年に天然記念物に指定され、山頂を含む一帯は、近年、県立自然公園として整備され、森林科学館、キャンプ場、羊の放牧場などが完成している。
【関口靖之】
太安萬呂の墓
『古事記』の編者太安萬呂の墓が1979年(昭和54年)奈良市の東山中の此瀬町の茶畑の改植中に偶然発見されたことで話題をよんだ。墳形は径4.8メートルの円形。高さは不明。墓壙は墳丘のほぼ中央部にあり、一辺平均1.7メートルの方形、深さは深い部分で1.8メートル、浅い部分で60センチ。四角い穴を掘り、その中に火葬骨の入った木櫃を墓壙の中央にをおさめ、周囲を木炭でおおうという構造(木炭槨)。木櫃は腐って遺存していなかった。
墓誌(純銅に近い銅板。長辺29.1センチ、短辺6.1センチ、重さ76.52グラム、厚さは右側辺で0.5ミリ、左側辺で0.5ミリ。左に19字の文字がたかねできざまれている。)は文字面を下向きにし櫃の裏側におかれていた。墓誌銘は「左京四條四坊徒四位下勲五等太安萬侶以葵亥 年七月六日卒之 養老七年十二月日乙巳」。
その他の遺物として木櫃片、骨片中にまじっていた真珠4顆、漆喰片若干。
この時代になると墳墓が奈良盆地の東縁部に営まれる。太安萬侶の東約500メートルには光仁天皇田原東陵がある。光仁天皇は施基親王の皇子。田原西陵は施基親王(天智天皇の第7子霊亀2年(716)没)の陵とされている。『万葉集』には霊亀元年没として笠金村の挽歌をおさめる。
【千田稔】