第14回巡検
名古屋の街・みなとウォッチング―歴史的景観とウォーターフロント―
【日 時】 平成8年5月19日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 小林健太郎 樋口節夫 石原 潤 伊藤安男 田中欣治 山田 誠 山田正浩 秋山元秀 原 眞一
【参加者】 66名
JR名古屋駅西口前から出発。JRと名鉄のガード下をくぐると、まもなくトヨタ産業技術記念館に着く。この栄生の地に、豊田佐吉が自動織機の発明・完成のため、1911年に織布試験工場を設立。その後、豊田紡績本社工場となる。この跡地に、トヨタグループ13社の共同事業として、94年6月に開館。ここがトヨタグループの発祥地だ。当時の工場のレンガ造りの建築群を貴重な産業遺産として保存・活用し、産業技術の変遷を語るものである。広い館内は、大きく繊維機械産業と自動車産業に分かれている。
記念館を出て、少し遠回りで堀川・五条橋に向う。堀川を渡り、熱田台地の緩やかな坂を上ると、車窓の左右には、「尾張名古屋は城でもつ」といわれる名古屋城と官庁街。この辺りが台地の西北端。この洪積台地は、都心の栄地区から南端の熱田神宮へと次第に低くなる。名古屋の中心部の多くは、熱田台地上にある。県庁・市役所を通り過ぎ、大津橋から外堀通に入る。少し下って、再び堀川にさしかかる。景雲橋の手前の川筋を木挽町に進むと、もう五条橋である。
▲堀川五条橋と舟着場跡
擬宝珠の欄干のかかる五条橋は、史上名高い名古屋開府の原点でもある「清須越」の基点。1610年(慶長11)の名古屋城築城に伴ない、尾張の政治中心である清須から、武家屋敷、町家、社寺、さらに町名、橋名などまで総移転して、整然と配置された。まさに壮大な近世の碁盤状の計画都市として、城下町が形成された。五条橋は、当時の由緒ある橋名。橋の向こう正面は、円頓寺商店街の東瑞にあたる。この商店街界隈は、戦前まで、大須とともに名古屋の代表的な繁華街であった。
堀川は、福島正則らにより、名古屋築城の頃に開削された。熱田台地の西縁の崖下を、城から熱田湊を南北に結ぶ経済輸送水路で、名古屋城下町の生活と経済を担う大動脈であった。往時の川岸にほ、米、塩、味噌、魚、木材などの問屋が軒を並べ、尾張藩の蔵もあった。また、水辺は、花見などでも賑っていた。戦前までは、都市水運として大いに活用されてきた。92年、建設省より、「堀川マイタウン・マイリバー整備事業計画」の指定を受ける。堀川は再生に向け始動。
橋を渡って、掘川西岸沿いにある旧大船町を中心とする四間道とその周辺の古い町並みを探訪する。四間道の名は、1700年(元禄13)の大火災後、道を四間(約7m)に拡幅整備されたことから由来する。道の東側に並ぶ白い土蔵群は、近世から近代にかけ、堀川水運を利用した名古屋商人の繁栄を物語る。土蔵群に面した西側には、尾張藩の頃の面影を残す町家が続く。都心近くのビルの谷間に、昔町が今に生きている。86年、市は、伝統的町並み保存地区に指定。第3番目である。町家の背後に高層の名古屋国際センタービルがあり、都心周辺の新旧の景観を示す。
五条橋から名古屋港ガーデン埠頭に向け、名古屋の街を南へと縦断する。途中、大須観音や金山総合駅近くを通り、再度、堀川沿いを進む。白鳥周辺の西岸には、近世より木曽材の貯木池などが広がっていた。現在、貯木場のはとんどが名古屋港の西部臨海地域に移転し、地域一帯は再開発され、名古屋国際会議場、公園、マンションなどに活用されている。東岸には熱田神宮公国の森がある。
築地口まで来ると、正面に白い帆の姿の美しいポートビルが大きく見える。もうガーデン埠頭が間近かだ。築地口からガーデン埠頭にかけて、91年より、まちとみなとの一体的な都市づくりをめざす「築地ポートタウン計画」が実施。ポートビルは昼食と総会の会場になる。ガーデン埠頭で少し自由時間をとりたい。
昼食後、貸し切り船「アルカンシェル(虹)」に乗船。宮の渡し跡まで堀川を進む。ここで折り返し、港湾に出る。建設中の名港中央大橋(97年開通予定)あたりの金城埠頭で引き返す。約1時間のクルーズは、当巡検のハイライト。お楽しみに。
▲名古屋コンテナターミナル
日本三大港の一つで躍動する名古屋港の港湾地域は、大きく4地区に区分できよう。・ウォーターフロント再開発されたガーデン埠頭地区。・貿易・港湾中枢機能とコンテナ・物流中枢機能の金城埠頭・西4区地区。・鉄鋼生産基地や製油基地などの南部臨海地区。・木材港や貯木場の西部臨海地区。
ガーデン埠頭は、名古屋港のウォーターフロント再開発の中心地区。1907年(明治40)の開港以来、貿易や移出入の中枢的役割を担った旧中央埠頭と東埠頭は、施設の老朽化や輸送方式の近代化に対応できなくなった。そこで、将来的な展望に立ち、市民に親しめる魅力ある国際港づくりの基本方針により、この埠頭間を埋立て再開発が始まった。84年、ポートビルと同館内の名古屋海洋博物館が開館した。同時に緑地や広場も整備される。その後、92年には、名古屋港水族館と新しいタイプの商業施設である「ジェテイ」が開館されるなど、親水空間としてのアメニティ機能が、より一層強化されるにいたる。
ガーデン埠頭からは、金城埠頭に向う。途中、築地ロを経由して、まもなく車窓の右手に中川口閘門(中川運河の河口)を見る。金城埠頭内を一周する。85年に開通した名港西大橋を渡って、西4区へと進む。流通基地などは車窓見学。さらに広大な貯木場を見ながら、国道23号(名四国道)に出る。しばらくして、川右岸の工場地帯に入る。船上からも眺めた宮の渡し跡に、少し寄ることにする。
宮の渡し跡は、堀川と新堀川(精進川を改修して運河化され1910年完成)の合流地にある。この渡し場は、旧東海道最大の宿場町熱田宿(宮の宿)から桑名宿への海上七里の渡しの起点であった。この地は熱田湊と呼ばれ、伊勢湾海運の要衝であり、名古屋城下町の外港として堀川水運で結ばれていた。この辺りが近世初頭の海岸線である。江戸期に、相次ぐ海面干拓による新田開発が行われ、海面は遠のき、湊の機能が次第に低下。明治以降、近代的港湾として対応できず、熱田湊の沖である保田沖に、新しい港が築港されていく。これが今日の名古屋港の始まりである。熱田湊の付近は、すでに中世末期には魚問屋などあり、賑っていた。常夜燈など復元され、市営公園として整備されているが、あまり往時の歴史的景観を偲ぶことはできない。
ここからすぐ近くに熱田神宮がある。樹齢千年にもなるクスノキなどの巨木が茂る熱田の社をミニ巡検して、信長塀やお清水といわれる泉などを見る。神宮周辺には、東海地方最大の前方後円墳・断夫山古墳などの古墳がある。この地域は、古代政治権力の中心地でもあったことを語っている。
神宮から伏見通を北に走行して、中川運河の松重閘門へ行く。名古屋高速を挟んで二基が対面する。中川運河は、堀川のバイパスとして、JR名古屋駅南の旧笹島貨物駅と名古屋港を南北に結ぶ、延長8.2km、最大幅90m、水深3mを有する産業輸送水路として開削され、本線が1930年(昭和5)に、さらに、32年に、掘川と連絡する支線がそれぞれ完成。河口の中川口と支線の松重の両閘門を持つ日本屈指の開削閘門式運河。最盛期の64年に、平均1日当り205隻を記録。その後、トラック輸送や港湾機能の拡充により激減の一途。松重閘門は68年(昭和43)まで使用された。86年、「近代名古屋発展の産業遺跡」として市の文化財指定に。最後に運河北詰の運河橋に寄り、JR名古屋駅西口に戻ることになる。
多数の皆様方のご参加を熱望します。
【原 眞一】