第12回巡検
亀岡盆地の歴史地理
【日 時】 1995年5月28日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 小林健太郎 池田 碩 高橋誠一 植村善博 西岡尚也 佐々木高弘
【参加者】 66名
1月17日未明、突如として襲いかかった大地震、気象庁は兵庫県南部地震と命名し、ジャーナリズムは阪神大震災と呼び、政府は阪神・淡路大震災と名付けました。会員の皆様はいかがでしたでしょうか。阪神地区にお住まいの方の中には、かなりの被害を受けられたケースも少なくなかったのではないかと、心からお見舞い申し上げます。
今年は、1966年にFHGを創設され、お亡くなりになる直前まで20年間にわたって、会の運営と発展に尽力され、多くの弟子たちをお育てになりました藤岡謙二郎先生のご逝去から、満10年を迎えることになりました。そこで、春の巡検の後、京都市左京区黒谷の金戒光明寺境内にある先生のお墓にお参りし、その近くにあるホテルで追悼会を開催することを企画しました。会員の皆様のご参加をお待ちしております。
この企画との関係で、春の巡検は京都近傍でということになり、亀岡盆地の歴史地理を訪ねるコースを設定しました。
亀岡盆地という呼称は、この盆地最大の中心都市亀岡の名称を冠したものですが、この地を亀岡と呼ぶようになったのは明治2年(1869)のことで、それ以前は亀山と呼ばれていました。この年の版籍奉還に際し、伊勢亀山との混同を避けるため改名されました。
しかし、城の名前は今日でも亀山城と呼ばれています。亀山城は大堰川右岸の河岸段丘上の小丘(亀山)を利用して作られたもので天正5年(1577)年から7年にかけて、明智光秀が中世の亀山砦を拡張して近世的な城郭を築城しました。明治前期以来、城跡は大本教教団の管理下にあり、大正10年と昭和10年の2回にわたる大本教の弾圧で木きく破壊されましたが、現在では天守台付近の石垣は復元され、同教団の聖地になっています。
園部城は、元和5年(1615)に丹波出石から入封した小出吉親によって、町の西南に位置する小麦山の東側台地を中心に築城されたもので、2.97万石の小藩であったため天守閣を欠き、園部陣屋とも呼ばれていました。現在は府立園部高校の敷地となり、城の櫓門が校門として利用され、その横に巽櫓も残されています。
生身(いきみ)天満宮は菅原道真を生前からお祀りしていたと伝える全国で唯一の神社で、当日は宮司さんの説明で、所蔵の制札などを拝見できることになっています。
丹波国分寺跡は亀岡市千歳町国分にあり、東塔の礎石が完存しており、往時の面影を偲ぶことができます。
亀岡城と城下町の建設時期
▲亀岡城下町
亀山城の城下町は、亀岡盆地南部の洪積台地(台地面の標高104m前後、盆地底との比高16m)上に位置している。亀山城の天守閣は、この台地の北端に位置する小丘(標高116m)に築かれ、北方に広がる盆地底を見下ろしていた。しかし、現在は大本教教団が聖地として管理しており、天守閣跡への立ち入りは許されていない。
亀山城と城下町の建設時期は、次のように3期に分けて考えられている。
第1期は天正5~7(1577~9)年頃で、明智光秀が亀山城を築城した時期にあたる。この時期は光秀の丹波攻めの最中であり、攻撃用の拠点を一刻も早く作るため築城が急がれ、近在の寺院や神社を破壊して、その用材等を調達している。天正7年に波多野氏の本拠、八上城が落城して丹波が平定された後、城下町等の形成が始まったであろうと考えられている。
第2期は天正19(1591)~文禄4(1599)年頃で、小早川秀秋によって城下町の整備が進められ、町並みおよび境目などが改められたことによって、現在残っている町並みの大部分は、この時期に形成された。
第3期は慶長6(1601)年から元和7(1621)年まで、前後20年にも達する時期で、掘の形成と天守閣の造営が中心であった。城下町全体を囲繞する惣堀は、北条氏勝が代官であった慶長7年(1602)に完成したと記されており、慶長11年(1606)には内掘が掘削され、内城部が事実上完成した。第3期の後半、慶長14(1609)年以降は岡部氏の入封によって近世亀山藩がスタートした時期であり、天守閣・二の丸北櫓・対面所・大手門・古世門・西門・雷門・保津門・新町門・三の丸の拡大・外掘の完成などの工事が行なわれた。天守閣は、伊予今治から伊勢津へ転封になった藤堂高虎によって献じられた伊予今治城の天守閣を移築したものであった。
【小林健太郎】