第10回巡検
北摂ニュータウンと丹波の城下町・庄園
【日 時】 1994年5月22日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 小林健太郎 池田 碩 上田洋行 高橋誠一 金田章裕 植村善博 辰己 勝
【参加者】 69名
今年の春の巡検は、兵庫県三田市で建設が進められている北摂ニュータウンの開発状況と兵庫県立人と自然の博物館を見学した後、丹波篠山の城下町と大山庄の故地を訪ね、さらに柏原まで足を伸ばします。
▲北摂ニュータウン
北摂ニュータウンは、この10年来、三田市南西部の丘陵地帯で兵庫県によって開発が進められているもので、テクノパークと呼ばれる内陸型の工業団地と大規模な住宅団地によって構成されており、現在も工事が続けられています。
篠山は1609(慶長14)年に天下普請によって建設された篠山城を中心とする城下町で、現在もなお城下町時代の面影を良く残しています。篠山の見所については、4ページの高橋誠一先生の解説をお読みください。
大山庄は篠山盆地の西に続く大山川の河谷に位置しており、9世紀の中頃から16世紀の初めまで、およそ650年もの長い間、京都東寺の荘園としての歴史を歩んだ所です。東寺にはこの荘園に関する史料が沢山残されてきたため、中世史研究のひとつの中心として数多くの研究が積み重ねられてきました。
柏原は江戸時代を通じて織田信長の子孫が領主となっていた小規模な陣屋町ですが、柏原藩の陣屋の主要部が残されています。
柏原町の北、氷上町石生は幅500メートル余り、標高100メートル前後の何の変哲もない谷間ですが、ここから西流する高谷川は加古川に注いで瀬戸内海に向かい、北流する黒井川は竹田川・由良川に注いで若狭湾に向かっており、本州で一番低い谷中分水谷です。
初夏の一日を楽しく過ごしましょう。
【小林健太郎】
篠山城下町における規格性
▲篠山城本丸跡
丹波篠山は、かつて6万石の城下町として栄えた。明治以降も、連隊の立地する軍都としてそして兵庫農科大学の所在地として丹波における独自の地位をたもっていた。ところが、そのような施設も廃止、鉄道の駅が町内に設置されなかったこともあって、戦後はながい停滞のままに眠りつづけてきたといわざるをえない。しかし、近年は町役場の新築、田園都市交響ホール・丹波杜氏資料館・大正ロマン館の開設、商店街の改装、ABCマラソン・デカンショ祭りと味祭りの開催など、篠山は、いまお洒落な変貌をとげつつある。とはいえ、町のいたるところに城下町としての雰囲気は漂いつづけている。一歩、繁華な通りからはいりこめば、そこはまだ江戸時代の「お城下」でもある。
篠山は、丹波守護細川氏の内紛に乗じて勢力をのばした波多野氏の拠点であった。1515(永正12)年山城の八上城が築かれたが、のちに波多野氏は滅亡。徳川家康によってこの地が重視され、松平氏によって1609(慶長14)年から篠山城の築城が開始、1701(元禄15)年には城下町の整備も完成。松平3代・青山6代の城下町として明治維新まで繁栄することとなった。この篠山城下町について、矢守一彦は『城下町研究ノート』(1970)において、郭内専士(D)型に計画されたが不完全なまま完成し、幕政の安定化にともなって次第に開放(E)型にちかづいていったと述べている。城をとりまく竹薮や河川についても、氏によって指摘されている。篠山城下町を建設する際に、はたして基準となる街区割が設定されたのであろうか。1993年の秋に実施した関西大学文学部地理学教室の実習調査の結果を報告しておきたい(『関西大学文学部地理学教室実習調査報告18 丹波篠山の地理』、1994)。
1682(天和2)年作成と書かれた「上立町絵図」が篠山町図書館に所蔵されている。「表口拾弐間一尺 亀屋徳左エ門」というように、各町屋の間口が記されている。そこでまず、該当する簡所を選んで、その間口を実測した。各家々の間には水路が通っているが、この水路幅についても実測した。その結果、この地域では1間は6尺3寸であることが判明した。またこの場合、絵図に記された間口(表口)には、水路幅は含まれていない。地元の大工さんからの聞取りによっても、この町では現在でも1間6尺3寸で計測しているとの確認を得た。
そこで、上立町の町屋の奥行きを計測した。何箇所かで計測した結果、1間を6尺3寸とした場合の、ちょうど25間が奥行きであることが判明した。この場合の25間は、家の前の道に面した水路と家の背後の水路幅を含めたものである可能性が強い。下立町と呉服町でも同様の結果がえられたから、町屋の奥行きが25間と設定されていたことはほぼ誤りがない。
つぎに上立町・下立町・呉服町において街区の長さを計測した。その結果、街区の長さは、100間もしくは125間という数値がえられた。街区の間の道路幅はこの数値に含まれないが、各家々の間の水路はこの数値に含まれる。したがって、篠山の町割りは25間×125ないし100間で設定されたことが分かった。
同様の調査を武家屋敷地区でも実施した。町屋地区ほど明確な規格性を得ることはできなかった。西濠西部の西新町や東濠東部の東新町の実測によって、屋敷地の奥行きは20間程度であることが判明したにすぎない。
【高橋誠一】