第8回巡検
西濃輪中―水郷の昔と今―
【日 時】 1993年5月30日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 樋口節夫 伊藤安男 田中欣治 原 眞一 高橋幸仁
【参加者】 68名
1993(平成5)年の春は皇太子妃に小和田雅子さん決定。奉祝ムードー杯でした。けれどもバブル景気と金丸問題で、うれしさ半減、世相は一般に暗いようです。でも庶民の生活は?でしょう。ニューFHGの巡検。今回は東にふれて、地元の先生方にお世話になることにして、「西濃輪中」と決定しました。
この水郷探訪は、筆者なりに、はやくから一度は途中下車して現地を見たいと思っていた所です。1972(昭和47)年から1980(昭和55)年までの8年間、大阪・京都と名古屋間を毎週往復した新幹線の車窓から、四季の美濃路の変化を楽しみましたが、特に米原・関ケ原・羽島の間では、雪景色と伊吹山の雄峯、羽島駅をめぐる雨季の三川と水郷風景が忘れられません。1976(昭和51)年の長良川決潰時は車窓から、安八町役場やサンヨー電機付近の水没事情を読みとったものです。ある時は勤務先の学生諸君とともに伊勢湾岸の干拓地や「佐屋路」から津島に入り、御師の町や金魚の町弥富にも出かけました。ともあれ、今回は、御当地の輪中博士花園大学教授安藤安男先生におまかせして、水郷の過去と現在をくまなく、案内していただくことになりました。先生は輪中研究の第一線にたち、その先達として、大垣市から過年度ですが文化功労者として賞をうけられたこともあります。なお、現地から会員の田中欣冶・原眞一・高橋幸仁氏も参加のうえ、御案内いただくことになり、このうえなく幸と思っています。よろしく御参加下さるようお願いします。
【樋口節夫】
輪中地域の治水と利水
集合場所の新幹線「岐阜羽島駅」は、桑原輪中の高位部に立地するが、駅開設以降のハイテンポな地域変化のため輪中景観はみられなくなった。
▲大垣市曽根「押堀」
巡検のバスは近年に新築されたホテルなどを望見しつつ、羽島大橋にて長良川を渡り最初の下車見学地に向うこととなる。そこは1976(昭和51)年9月12日に長良川が決潰した場所である。長良川本流が決潰するというショッキングな輪中災害だけに今日まで様々な問題を提起している。そして最後の見学地の長良川河口堰と強く連動することとなる。それは利水で計画された河口堰が治水へと大きく転換する動機となったことである。それとともに地域住民は、破堤地にかつての切所池の押堀(おっぽり)、丸他の存在が破堤の引金となったと人災説の訴訟となり、水害裁判の判決は住民側の全面的勝訴、これを不服とする国側は訴訟した結果は逆転して住民敗訴となつた所である。破堤地が洗掘されて切所池となる押堀、そしてその箇所が破堤を繰り返すことを実証するのが、次の見学地である。
車は大垣一宮線、R258、R21を経て大垣市北部の曽根町に向う。ここは大垣輪中の北部の輪中堤である。その堤上に「堤防決潰之地 明治二十一年七月二十九日」の碑があり、堤脚部に押堀の曽根池がみられる。この切所池はそのときのものであると考えるのが常識であろう。しかし1871(明治4)年の川通絵図にこの池は切所池と朱筆されて記載されている。このことはかつての切所が1888(明治21)年に再び決潰したこととなる。このような例は輪中地域だけでなく、わが国の河川にみられる共通の傾向である。なお池の近くの華渓寺は、戦国期の稲葉一族の曽根城跡であり、また曽根町は幕末の勤王の漢詩人梁川星巌ゆかりの地でもある。
大垣市北部よりR258を一路南下して、名神の大垣ICを過ぎる。この付近は大垣輪中のなかでも最も地盤高が低く、2.5mの等高線が円を描く盆地底にあたるため、堀田が多くみられた。また水屋分布の多い場所である。水屋は旧FHG時代に見学しているので割愛した。大垣市域の大垣輪中は杭瀬川と牧田川にかかる養老大橋で終り、多芸(たぎ)輪中にはいる。ここは1959(昭和34)年8月の7号台風により牧田川が根古池で破堤入水し、同年9月の伊勢湾台風で同じ箇所が再び破堤した輪中である。R258はこの多芸輪中の低位部を南北走している。この輪中の南部を流れる津屋川を渡ると、国道は養老山地の断層崖下の扇状地地帯を走る。
養老山地の多くの谷のひとつ、羽根谷にデレーケによる砂防堰堤が残されている。ここが第3番目の下車巡検地となる。オランダ人庸工師ヨハネス・デレーケ(Johannis de Rijke)は、1873(明治6)年に来日し、淀川改修、大阪築港に関連して木津川水系に近代的巨右積砂防堰堤を築く。その最初のものが京都府山城町の不動川のものであり、それに次ぐものがここの羽根谷のものである。しかし木津川水系のものの大半は1953(昭和28)年の南山城水害により破壊されて、現存するものは規模の小さいものである。その意味において、この羽根谷のものは、デレーケによる最大のものといえよう。デレーケは明治新政府より木曽三川の改修計画を命じられて来岐するのは、1878(明治11)年のことである。その報告のなかで木曽三川の分流工事にさきだち、養老山地より揖斐川に流出する土砂防止を強く要望し、そして築かれたのがこの羽根谷のものである。山のない、急流河川のない国の技術と批判されながらもそれを見事に結実させたのである。これが後世にデレーケ砂防とか、オランダ堰堤とか称されるものである。
羽根谷の扇状地をあとに東行して福岡大橋にて揖斐川を渡り、再び輪中地域にはいる。昼食及び総会は高須輪中の中心集落、海津町高須にある「海津レストラン」である。ここは県下第一の川魚問屋の直営店である。輪中の郷土料理といえば川魚である。当日は輪中の食文化について考えていただきたい。
昼食、総会のあとはすぐ近くに4月30日にオープンした海津町歴史民俗資料館を見学する。この建物は3階建で上層は城郭建築を模し、1・2階は輪中資料館、3階は輪中の城下町として知られる松平3万石の高須藩関係の展示である。なおここの城下町については、京都大学の青木伸好先生が藤岡謙二郎先生の退官論文集のなかで「美濃高須城下町立地に関する一考察」を論じている。ご一読下さい。
資料館見学後、バスは揖斐川の左岸堤上を南下する。次の見学地、木曽三川公園までの約20分間のコースは、左手に輪中景観、右に養老断層山地と扇状地を眺めることができる。天気がよければ三角未端面が美しい。右に揖斐川、左に長良、木曽両川の合流する地点が岐阜県最南端であり、愛知、三重の三県の県境である。
▲長良川河口堰工事現場
ここはかつて木曽三川が合流した難所であり、宝暦治水の哀史で名高い油島千本松である。この薩摩堤の上に治水神社がある。ここに1987(昭和62)年に木曽三川近代治水100年記念として、わが国最大の国営木曽三川公園が造成された。100年記念とはデレーケによる分流改修工事着工の1887(明治20)年から100年を記念したものである。次の見学地は対岸の長良、木曽両川の河間にある建設省木曽川文庫(デレーケ記念館)、デレーケ銅像、小パナマといわれる閘門である。
その後は長良川左岸堤上を南下して、建設中の長良川河口堰を見学する。ここでは水資源公団の係員より説明をうけ現場に向う。このあとは木曽岬干拓地を見学して、名古屋に直行して名古屋駅西口で解散することとなる。
【伊藤安男】