第7回巡検
紀州路―風土記・万葉の旅―
【日 時】 1992年11月29日(日)
【案内者】 水田義一 藤森 勉 小林 護 吉田昌生 中野栄治 桑原康宏 額田雅裕
【参加者】 50名
タスマニア巡検も無事終了、暑い今年の夏日は「忍」の一字におきかえての生活でした。「吉野巡検」の次にと、過日、和歌山から参加の諸兄に、内々お願いしていました次回の巡検の下見に、8月30日(日)出かけました。天王寺駅から特急「くろしお」に飛び乗り、JR和歌山に着。和歌山地理学会の諸兄の出迎をうけた。今回の巡検は藤森・水田・中野・桑原・小林(護)・額田・・・と現地の方々にお世話になることになった。太田城水攻めの遺構、県立風土記の丘公園での古墳の研究、海南市に入ってからは、熊野古道に沿う「藤白神社」の王子社を訪ね、つづいて紀州漆器の本場「黒江」入り、川端での同業者町を散策ののち、洒づくり資料館「温古伝承館」で昼食にしたい。ここでは万葉のロマンと美酒を味わいたいと思う。いにしえの黒牛潟、黒江の町並、今は塗物と酒造の町海南、それが大きく変容している。海岸近くの埋立地の風景が如実に知らせてくれる。紀三井寺前の道を過ぎて、和歌山マリーナ・シティー(世界リゾート博予定地)を遠望しながら、車は和歌浦海岸に到着する。和歌浦公園の建設と片男波海水浴場拡大を理由にして、「不老橋」をめぐる景観保全の論争がくりかえされた。それらの現実を、玉津島神社の裏山に登り、しっかりと展望してみたいと思っている。帰路は新和歌浦から、雑賀崎にむかい、新しく登場した「材木団地」から、紀ノ川河口にまで車を進めたい。紀ノ川の変遷を川口から、その跡を観察したいと思う。ともあれ、時間の経過ははやいので、和歌山市のシンボル「和歌山城」を東・西・南・北・・・といった四周からしっかり観察したい。~風土記と万葉の旅~の副題は当日の重要地点にかかわった記録からのイメージ表記です。近いと思った和歌山、天王寺から約1時間“紀州路”まで、ちょっと距離がありますが、会員諸兄の御参加を待っています。
なお、恒例により、本回は巡検の解散後、JR和歌山駅近在のJA会館の銀杏で、懇親会を予定しています。1992(平成4)年最初の忘年会になります。本年は1月初頭の役員会にはじまり、「タスマニア巡検」の下準備、2月には会員名簿の作成、3月は会報No.6の発行、4月はYFHG、5月は第6回「南大和」巡検、6月には海外巡検の説明会、7月末から8月初にかけて第3回海外巡検「オーストラリア」、8月末に第7回巡検「紀州路」の下見、9月初「タスマニアと本土の三都市」文集の編集・・・と、委員の諸兄にはいそがしいながらも楽しく、イベントの処理にあたっていただきました。ついては、会員諸氏にも一層の御助言と御支援をえたく思っていますので、懇親会の方にも、ぜひお越し下さい。
【樋口節夫】
太田城水攻め~その位置と規模~
太田城水攻めは、1585(天正13)年3月下旬秀吉の紀州攻め最後に行われた。日本三大水攻めの1つとして知られる。太田城は、東西二町半、南北二町の掘と土手を廻らした平城で、東に大門があったという。従来、太田城は小字城跡の来迎寺が本丸跡といわれ、そこには水攻め時の勇将太田左近の墓や1921(大正10)年建立の太田城址碑がある。しかし、本当にここが太田城であった確証はない。
また水攻め堤は、八軒屋からJR和歌山駅西側を経て花山まで築かれたという。しかし、水攻め史料ははとんど徳川支配の確立後のもので、全長5km・高さ13mに及ぶ堤を5日間で築く点など疑問が多い。また、来迎寺は沖積段丘上にあり、水攻めは困難と考えられる。
額田(1987)は、沖積段丘崖と自然堤防を利用し、現存の出水堤によって宮井川を堰き止めただけの小規模な水攻めとし、太田城は当時太田の地、出水にあったと推定した。
【額田雅裕】
熊野街道と藤代王子
▲藤白神社
藤原為房の『為房卿記』に「藤代の人宿に著く」とあるように、藤白には、世紀末に比較的まとまった集落があり、峠下集落の機能を持っていた。この集落の一角に斉明天皇が牟婁湯行幸の際建立したと伝えられる藤白神社があり、そこに九十九王子の1つ藤代王子が勧請された。熊野街道の難路の始まりは藤代王子からである。海抜255mの藤白峠まで2.7km。平均勾配20度の急坂な山道が続く。都人の中には、この坂を登れず、藤代王子から熊野三山を遥拝して、心残りのまま帰路についた人も少なくなかった。そこでこの王子は熊野の「一の鳥居」といつしか言われ、街道沿道99王子のうち、とくに格の高い五体王子になった。そこでは奉幣・歌会、相撲・男神楽等を奉納し、旅の無事を祈願した。
和泉山脈の雄ノ山峠~山ロ~紀ノ川~吐前~藤白と来た道は、さらに310キロ先の熊野三山へと続くのである。
【桑原康宏】
黒江塗の町並景観
黒江塗の起源は、室町末期の近江、筒井八幡を本拠とする木地師の伝統に、根来塗の技法を導入し、江戸期には藩の保護や株仲間をもって加賀・会津とともに三大産地となった。第2次世界大戦後はプラスチックと素地に化学塗料を吹きつける新製品へと変質し、また新しい漆器団地が郊外に造成された。
それでも伝統ある塗師の仕事部屋や町並景観が黒江の中心街、川端通りに色濃く残っている。この通りは黒江湾の入江から入りこんだ川端に舟をつけて賑った漆器問屋や倉庫がみられ、屋敷が道に面して鋸状にくい違いをもち、また連子格子の風情ある景観がみられる。問屋の周辺には「塗師」「木地師」など分業的な町屋構造を今もわずかに残している。こういった伝統産業の町並保存は、1984年の観光資源保護財団の報告書(Vo1.12)に詳しい。
【中野栄治】
和歌山マリーナシティー
〔建設の目的〕
1)1994(平成6)年の関西新空港開港に伴い、国際会議場をはじめ外国人の受入れ態勢の基盤整備。2)国内でのリゾート、余暇時代の到来に備えマリンリゾート地を開発して、そのニーズに応える。等を目的として1989(平成元)年起工、1994(平成6)年完成予定で同時に、「世界リゾート博」の開催も予定されている。
〔位置と規模〕
和歌浦湾に面する和歌山市毛見沖150mに人工島65ha(内、陸域49ha海域16ha)を造成している。
〔事業主体〕
国・県・第三セクター。
〔主な施設〕
1)マリーナ施設(ボートヤード・艇庫など)2)住居施設(マンションなど)3)宿泊施設4)スポーツ施設5)文化施設(海洋博物館など)6)商業・業務施設7)旅客船ターミナル施設8)観光魚市場9)交通ターミナル10)国際交流施設(国際会議場・高層ホテル)等の建設を予定している。
【小林 護】
不老橋
▲和歌浦の不老橋
不老橋は、玉津島神社に近く、片男波を望む位置に架けられた小さな石の橋である。完成は1851(嘉永4)年であるが、架橋の経緯には不詳の点が多い。発端は、十代藩主徳川治宝による東照宮お旅所の移転と「裏道」の開設を契機としたものであろうが、不老橋という呼び名の名付け親とその意図は定かでない。橋は本州では珍しい石造アーチ型を呈しているが、建造には九州に多い眼鏡橋を手掛けて名のあった岩永三五郎の系譜を引く石工集団が当たったと考えられている。ただ、勾欄部は湯浅西森家の祖である石屋忠兵衛の施工といわれている。ともあれ、この小さな橋は建造物としての工芸的価値とともに、名草の山並みの景を借り、片男波の水面に映える歴史的景観として良く県民の誇りの一つであつた。ところが昭和63年暮、県は和歌公園の建設と海水浴場の拡張を理由に車道橋の建設に踏切り、景観保存の声を抑えて、いま見る「あしべ橋」の架橋を果たしたのである。
【藤森 勉】
紀ノ川の変遷
磯の浦から伸びる砂州の内湾が次第に埋められて紀ノ川河口は、陸化の進展とともに河道が固定されてきた。しかし和歌山の町の起源となる、中世の紀伊湊から鷺の森本願寺(1554)、和歌山城の建設(1585)頃の紀ノ川の流路はどこを流れていたか未解決に残されてきていた。日下雅義の研究によれば紀ノ川の河道は、1)奈良時代は北へ大きく蛇行した後現在の和歌川の流路をとる。2)11世紀には和歌川は小さな支流となり、本流は西へ移動し今の水軒川を流れる。その時期は16~17世と考えられるとしている。(歴史時代の地形環境)昨年和歌山地方史研究21号に矢田俊文氏が日下説を補正する説を述べられた。この雑誌は流布範囲が狭いので会員の方の目にふれる機会が少ないと思われるので紹介したい。
城下町の湊地区は紀伊で最大の加子役を負担する地区であった。湊4町の住民は紀ノ川の北岸の和田浦から明応の頃津波のため湊地区に移住したという伝承がある。湊に現存する海善寺・善福寺・安養寺や吹上社・水門神・和田浜神社は北岸の和田浦に置かれたものが明応年間に湊へ移転されている。このことから伝承は正しく1498(明応7)年の地震よって壊滅した和田浦の住民が城下町の湊区に移住したのは事実であったと結論付けられた。
豊臣(1585)・浅野(1600)・徳川(1619)と3期にわたり、整備された城下町の発展過程とその糸口が解りかけてきた。
【水田義一】