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【リレーエッセイ14】


(モロッコ・アンダルシア見聞録)

緑と砂漠の国・モロッコとイスラム文化が色濃く遺る南部スペインアンダルシア2

宮﨑信隆(農博・「関西地図の会」副会長)


【行程(⑨:日目、*:宿泊)】
⑨タンジェ~アルヘシラス~ジブラルタル~ミハス~マラガ*
⑩マラガ~グラナダ*(アル・ハンブラ、ヘネラリーフェ、市街、フラメンコ観賞)
⑪グラナダ~コルドバ(メスキータ、市街)~マドリッド*
⑫⑬マドリッド~*ドバイ~関西空港


[アンダルシアAndalucíaの部]

~アンダルシアAndalucía(州)~

 アンダルシア(州)は、人口は約820万人(2008)でスペインの州の中では1番目、面積は8.7万㎞2で州の中では2番目の州で、州都はセヴィーリャSevillaです。州内の主要都市としては、セヴィーリャ(約70万人・2010(以下同じ):[今回訪れず])、マラガ(約57万人)、コルドバ(約33万人)、グラナダ(約24万人)があります。
 この地方は紀元前1000年頃にコルドバ、セヴィーリャを流れるグアダルキビール川Rio Guadalquivirの河口に都市タルテッソスが発展し、BC4世紀から2世紀末にかけて、カルタゴ領であったイベリア半島の他地域などとともに順次ローマ帝国の支配下に入り、「イリベリスIlliberis」という名前で呼ばれました。5世紀からは、ゲルマン系のヴァンダル族の西ゴート王国に支配され、「Vandalicia(ヴァンダル人の国)」が「アンダルシア」の語源となったといわれます。8世紀初頭には、イスラム教徒に征服され、占領地は「アル・アンダルス Al-Ándalus」と命名されました。
 以後、グラナダは15世紀末まで約800年間近く、イスラム支配地となりました。8世紀半ばには、モロッコを支配していたウマイヤ王朝の王族が建てた後ウマイヤ朝がコルドバを首都とし、その中心はモスク(メスキータ:現在はキリスト大聖堂)でした。その中で、10世紀にはコルドバは世界最大の人口(約50万人)を持つ都市となったといわれており、300ものモスクが建造されたそうです。グラナダは11世紀の初めに独立しましたが、11世紀末にモロッコを支配したムラービト朝に、12世紀半ばには同じくムワッヒド朝に征服されました。しかしながら、13世紀半ばには「レコンキスタReconquista」によりコルドバがカスティーリャ王国に征服され、周辺地域も14世紀にはキリスト教徒が制圧し、終にはグラナダを都としていた最後のイスラム王朝であるナスル朝が1492年に陥落し、スペイン王国に統一されました。


~タンジェTangerからアルヘシラスAlgecirasへ~

 モロッコについて8日目、モロッコ最後の巡検地・タンジェのホテルを7時前に出発して、タンジェ市街から東方へ約40㎞のところに造られた新タンジェ国際港Port Tanger Med.へバスで移動しました。新港は国際貿易港でもあり、モロッコ・スペイン間即ちモロッコと西欧諸国を繋ぐフェリーボートの発着港で、早朝と雖も、アフリカ大陸から欧州への密航者が多い中、少なからず緊張感を覚えました。
 しかし、意外にも旅券・荷物検査は簡単に終り、モロッコからの「出国」となり、船着場までバスで移動しました。結局、乗船する便は数台のトラック・バス・乗用車しか積まないかなりも大きなフェリー船で、ガラガラのまま8時30分に出発して、約2時間の船旅となりました。今回の巡検中はバス移動がほとんどでしたが、この海路が唯一の海上移動でした。新港からは東北方向に独特の尖がった半島である英領ジブラルタルGibraltarが遠望され、アルヘシラスに着くまで右舷にずっと見えていました。
 人口約12万人(2010)の町・アルヘシラスはアラビア語の「Al Djezirah」に由来しているようで、8世紀の初めにイスラム勢力により造られました。結局、8~14世紀はムーア人が支配し、14世紀半ばにレコンキスタが進展する中で、カスティリャ王国アルフォンソ11世により攻略されて、ジブラルタル海峡がキリスト教徒により確保されました。


~英領ジブラルタルGibraltar~

 アフリカと欧州の接点の町アルヘシラスから1時間余で、人口約3万人(2013)・南北5km、東西1.2㎞で面積6.5㎢のジブラルタルに到着しました。ここはイベリア半島の南端に突き出した小半島を占める英国の海外領土の一つで、ジブラルタル海峡を望む良港を持ち、地中海の出入口を抑える戦略的要衝の地、「地中海の鍵」として軍事上・海上交通上の重要拠点です。

ジブラルタル
▲The Rock:ジブラルタル

 バスをスペイン側で降りて、旅券を見せて、歩いて「国境」の検問所を通り過ぎました。ジブラルタル側で待ち受けていた英国人の所有するマイクロバスに乗って、半島を半周して西端に近い公園からモロッコを眺め、更に岩山の中腹まで上って、小さな半島両側のジブラルタルの港湾風景とスペイン南岸を眺望しました。
 当地は、1701年のスペイン(西)王位継承争いで、カール大公(後の神聖ローマ皇帝カール6世)を後押しする墺、英、蘭が、仏王ルイ14世と西王フェリペ5世に宣戦布告して始まった「西国王位継承戦争」において、1704年・英・蘭艦隊の支援の下、墺軍人指揮下の海兵隊が上陸し、占領してしまいました。仏・西連合軍は奪回作戦を行うも、英・蘭海軍の迎撃により撤退し、結局1713年の「ユトレヒト条約」によって英領となってしまいました。爾来、現在も英海軍のジブラルタル戦隊(Gibraltar Squadron)が駐留し、スペインによる包囲や数度の返還要求にも拘らず「占領」は続いており、モロッコの北端にあるセウタCeuta(スペイン領)と同様の状態です。
 狭いジブラルタル半島の大半を占める特徴的な岩山(The Rock:海抜426m)は、石灰岩と頁岩からなり、鍾乳洞が山中にあることも相俟って、岩山を掘って軍事要塞の地下通路、弾薬庫、貯蔵庫などが現在も温存されており、街角にもその軍事施設跡を活用したレストラン街などが見受けられます。掘り出された土砂は北西岸の埋立飛行場建設などに使われたそうです。


~ミハスMijas~

 ジブラルタルから高速道路A7号線を通り、約1時間半で太陽海岸Costa del Solの山腹にある人口約7万人(2009)の「白い村Aldea Blanca」・ミハスMijas Puebroに到着しました。ごく小規模の遺跡を除き、歴史的遺産などはありませんが、街の建物が「白」一色に統一されて中を、彼方此方歩きながら地中海も眺望できる小さな町です。

 

~マラガMálaga~

 白い町・ミハスから約20kmでマラガ県の県都・人口約57万人(2010)の町・スペイン第6位の都市マラガに着きました。地中海に面し、スペイン南岸のリゾート地コスタ・デル・ソル最大の都市です。
 小憩後、市街の散策を行い、先ず、カトリック両王の命により16世紀から建造が始まって、ゴシック、ルネサンス、バロックなどさまざまな様式が混在し、正面右側の塔が未完成のままである「大聖堂Catedral」、続いてイスラム教徒が古代ローマの要塞跡に11世紀中期に建設した城塞「アルカサバAlcazaba」を何れも下方から見上げるようにしながら歩きました。その間にパブロ・ピカソPablo Picassoの生誕地であるので、ブロンズ像の置かれた公園で「ピカソ」と肩を組んで記念撮影をしました。繁華街Marqués de Lariosの通りは装飾の豊かさなど依り、14年前の訪れた時のマラガよりかなり発展しているように感じました。


~グラナダGranada~

 翌朝、巡検10日目・スペイン2日目は、マラガから約130㎞離れたグラナダに向って高速道路を走りました。沿道の両側はオリーヴ栽培の丘陵地帯が広がっており、農村は赤茶色屋根とその中にキリスト教会が建ち、その風景は日本農村の黒瓦葺き集落の中の大きな瓦屋根の寺院が立つ光景を思い出させるものでした。
 グラナダは標高685mの高原にある、人口約23万人(2012)のグラナダ県の県都で、イベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝グラナダ王国の都として1492年の陥落まで存続した町です。壮麗なアルハンブラ宮殿があり、南東側に雪を被って並ぶ3400m級のシエラ・ネバダ山脈の麓のベガVega(沃野)を基盤にして栄えました。
 グラナダの最大の「名所」は「アルハンブラ宮殿Palacio de la Al-Hambra」ですが、その名の通りの「赤い城」で、アル・アフマール(在位1232~73年)が建設を開始し、約100年後の7代目ユースフ1世(同1333~54年)の時代に完成しています。当然、装飾はイスラム文化全盛時のものが取り入れられており、フェズのブーナニヤBouananiya神学校やマラケシュのバヒア宮殿で観た装飾と類似の細密で華麗なものが次か次へと現れて圧巻でした。勿論、ヘネラリーフェGeneralife、アルバイシンAlbaicinとともにUNESCO世界文化遺産に登録されています。

グラナダ
▲アルハンブラ宮殿・イスラム装飾:グラナダ

 アルハンブラ宮殿の後は市街地に入り、16世紀初めより、モスク跡に建設が開始された、プラテレスコ様式(Estilo Plateresco:16世紀前半のスペイン・ルネサンス建築様式で、イタリア・ルネサンス~ゴシック~アラブ的ムデハル様式の折衷)といわれる塔が未完成の「大聖堂Catedral」、市庁舎、狭い路地の繁華街で土産物店なども多いアルカイセリアAlcaiceriaなどを見物し、夕食後はロマ人の踊り子が多い、サクロモンテSacromonteの丘の「洞窟フラメンコ」を鑑賞しました。グラナダを囲む丘陵地の城壁跡に近いところで、哀愁に満ちたメロデイーと音色が洞窟に響き渡ると、そのリズムと相俟って徐々に引き込まれていきました。



~コルドバCórdoba~

 巡検11日目・スペイン3日目は、グラナダを出発して、約170㎞離れたコルドバ県の県都で、グアダルキビールGuadalquivir川に面した、人口約33万人(2012年)のコルドバに向かいました。途中のN432号線の両側の丘々は麓から頂上まで、マラガ~グラナダ間と同様に、一面のオリーヴ畑が広がっていました。
 コルドバは、何回もの戦禍で壊されては補修されたローマ時代に造られた石橋Puerta Romanoが現在も一般に使用され(車は近年より通行禁止)、その後の「後ウマイヤ朝」[756~1031年]の首都時代のイスラム文化を伝える建築物や街路が遺されており、メスキータ Mezquitaやユダヤ人街を含む「コルドバ歴史地区」がUNESCO世界文化遺産に登録されています。

コルドバ
▲ローマ時代に建設されたローマ橋の対岸にアルカサルAlcazar(左)
 とメスキータ(右)が並ぶ歴史地区:コルドバ

 メスキータは、モロッコを支配したウマイヤ朝の子孫である後ウマイヤ朝創設者により、8世紀末近くに建設が開始され、以後3回拡張されましたが、特に10世紀後半に拡張された時にミーラブmihrabという高い窪みが造られ遺存しています。その後、レコンキスタでキリスト教国・スペイン側に奪還されて、イスラム・モスクがキリスト教・大聖堂に大改造されており、両文化の混淆によるイスラム・モスク跡とキリスト教・大聖堂が同居しています。
 街中では狭い道路の両側の白い家の手摺や壁面には鉢植えの花が沢山飾られており、その路地の向こうにメスキータの尖塔がのぞくところは「花の小径Calleja de las Fores」として観光の対象になっています。一つの文化を生み出したような、歴史とは離れた現代の「名所」のようです。

マドリッド
▲(左)AVE・Targo350系車両・(右)乗車AVE車両(S-100系)
 :アトーチャ駅・マドリッド

 コルドバからマドリッドは新幹線で2時間弱の旅でした。最高時速270㎞、平均的には時速250kmで、東海道新幹線よりも揺れが少なく、快適にスペインの高原を駆け抜け、終点マドリッドのアトーチャAtocha駅には定刻より少し早く着きました。「定刻より数分早く着く」ということが、日本では考えられない『スペインの大らかさ』とでもいうのでしょうか。乗車した車両は「S-100系」で最高時速300㎞、軌道幅は標準軌(1435mm)の初代AVE車両でした。
 翌日、巡検12日目は、昼前にホテルを出発して、バラハス空港Aeropuert de Barajasに向い、ドバイ経由のエミレーツ機で帰国の途に就きました。


 この度の海外巡検は、ベルベール族が興し、アラブ族が発展させたイスラム文化の国・モロッコと、そのモロッコからジブラルタル海峡を渡って、イベリア半島に発展させたイスラム文化の色濃く遺るアンダルシアを続けて巡検することができ、両地域に相似性が極めて濃い文化が遺存されていることを改めて感ずることが出来た有意義な「海外巡検」でありました。本巡検を企画された方々に敬意を表し、感謝申します。



【参考文献】
1.「Distoguide Espana」、Hallwag International、2010.
2.「地球の歩き方・スペイン」、ダイヤモンド社、2012,1999.