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【リレーエッセイ12】


(モロッコ・アンダルシア見聞録)

緑と砂漠の国・モロッコとイスラム文化が色濃く遺る南部スペインアンダルシア1

宮﨑信隆(農博・「関西地図の会」副会長)


 2014年2月23日~3月7日、野外歴史地理学研究会の海外巡検に参加して、モロッコとスペイン南部・アンダルシアを巡る機会を得ましたので、その見聞録を記すこととしました。
 モロッコには、当初一時的にキリスト教が入りましたが、8世紀頃から現在まではイスラム王朝による支配が続いており、現在はイドリースIdriss王朝に始まって9つ目の王朝であるアラウイーAlawi朝の立憲王国であり、華麗で巨大なモスクがあちこちの都市に建てられています。
 一方、スペイン南部のアンダルシアAndalucia(州)は、8世紀から15世紀に亙り、イスラム王国によって支配されてきたため、当時の首都にもなったグラナダGranadaやコルドバCordobaにはイスラム寺院の基に築いたキリスト教文化が遺存しています。

【行程(①:日目、*:宿泊)】
①②関西空港~*~ドバイ~カサブランカ*
③カサブランカ(ハッサン2世モスク、モハンメド5世広場)~マラケシュ*
④マラケシュ(クートウビア・モスク、バヒア宮殿、ジャマ・エル・フナ広場)~オート・アトラス山脈・テイシュカ峠~アイト・ベン・ハッドウ~ワリザザート*
⑤ワルザザート~カスバ街道~ブマルネ・ドウ・ダデス~ドドラ渓谷~アル・ラシデイア~エルフード*
⑥エルフード~メルズーガ砂漠~エル・ラシデイア~ズイズ渓谷~オート・アトラス山脈~ミデルト~イフレーヌ~フェズ*
⑦フェズ市街(ネジャリン広場、ブ・ジェロウド門、ブナニア神学校・皮革製造工場・陶器製造工場)*
⑧フェズ~ヴォルビリス・ローマ遺跡~メクネス(アル・マンスール門、エデイム広場)~タンジェ*
⑨タンジェ~ジブラルタル海峡~アルヘシラス~ジブラルタル~ミハス~マラガ*
⑩マラガ~グラナダ(アル・ハンブラ、ヘネリフェ庭園)*
⑪グラナダ~コルドバ(メスキータ)~マドリッド*
⑫⑬マドリッド~*~ドバイ~関西空港


[モロッコMarocの部]

モロッコ最大の経済都市から穀倉地帯・歴史都市へ

~カサブランカCasablanca~

行程図
▲行程図(赤太線)・高速A7号線・カサブランカ~マラケシュ:
 「CARTE-ROUTIERE-DU-MAROC」

 カサブランカは、アラビア語ではad-dār al-bayḍāʼですが、ポルトガル語・スペイン語で「白い家」を意味しています。
 前日の深夜12時前に関西空港を離陸して、ドバイDubaiで約2時間の乗継を済ませ、カサブランカに向かいました。ドバイでは、当然のことながら、アラブ系の人々の衣装が溢れており、特に頭部から肩にかけて橙色の短いマント[ヒジャブ様]と黒色ニカブ様のロングスカートの女子学生の大きな団体が慌ただしく搭乗していったのは印象的でした。
 カサブランカはモロッコ最大の都市であり、モロッコの商業・金融の中心地で、北は大西洋に面していますが、人口は諸説(?)あって、350万人(2004年)とも、現在は500万人(ガイド・ハワさん)ともいわれています。要するに、余り正確な人口調査が実施されていないということのようです。
 カサブランカの起源は、紀元前10世紀にベルベル人が「アンファ」という地域に定住したのが始まりだといわれており、紀元前7世紀頃にフェニキア人、紀元前5世紀頃にはローマ人と交易が行われていたようです。12世紀にイスラム・ムワッヒド朝に支配を受け、14世紀にはマリーン朝によって大規模なイスラムへの改宗が行われた頃に、港湾が大きく発達し、16世紀のポルトガル人による町の再建後に町を「Casa Blanca」(ポルトガル語「白い家」)と命名されたそうです。1755年に起こったリスボン大地震により甚大な被害を受けましたが、現在のアラウィー朝モロッコに統合され、1770年から、ムハンマド3世によって町の再建工事が行われ、町は要塞化されました。44年間のフランス領時代を過ぎて、1956年の独立後は経済の中心的国際都市として発展してきました。市街には、現在欧州の中都市を中心に、路線開設の動きが広がっている「LRT」(Light Rail Transit:低床型市街電車)路線が、一昨年12月より10両編成のが3路線営業運転されています。

市場スーク
▲市場スークSouq・Medina:カサブランカ

 モロッコに到着して2日目は、先ずカサブランカ市街の見物です。宿泊したホテル「Prince de Paris」は歩いて5分ほどで「Place des Nations Unies」(国連広場)に着くことができる中心街にありました。裁判所や市役所など行政機関の集まった中心街を散策後、Medina(旧市街)に向いました。
 旧市街Medina内の市場スークsouqは多種多様な品物が並んでいましたが、朝方のためか、人ではやや少ないように思われました。

 続いて訪れたところは、「ハッサン2世モスクMosquèe HassanⅡ」です。高さ200mのミナレット(minaret:アラビア語はマナーラmanārah)が聳えたちますが、前国王ハッサン2世の発案で、1986年から7年かけて建造されたもので、内部には2万5000人、敷地には8万人が一度に礼拝できる広間が2階建てにして設えてあります。伝統的な建築工法を用い、モロッコ全土から3,300人もの職人他を集めて、すべて手作りで緻密な装飾を施したそうです。地下1階には身体を清める泉や浴場が、また神学校、図書館、博物館、カフェなども併設され、そのすべてが税金と寄付金で建てられたそうです。将に、モロッコ王国挙げての壮麗な大モスクです。


~穀倉地帯を行く~

穀倉地帯
▲穀倉地帯:カサブランカ~マラケシュ・高速道路A7号線周辺

 モロッコ王国は、就業人口の46%が農業に従事しており(日本・5%:2004)、冬小麦(大麦・燕麦も少し)、オリーヴ、ブドウ、オレンジ、レモン、蔬菜、棉等々、多種多様な栽培がなされていますが、砂糖黍・砂糖大根、向日葵、更には仙人掌(サボテン)も栽培され、羊・山羊・駱駝が放牧(移牧)されています。
 モロッコ2日目の午後は、モロッコが「農業国」であることを目の当たりにすることが出来た半日でした。即ち、カサブランカからマラケシュMarrakechまで高速道路A7号線を走ることよって、そのことが如実に伺われました。なお、この間には大河として、北から順に、ウム・エル・ルビア川Oued Oum er Rbiaと、マラケシュの近くを流れるテンシフツ川Oued Tensiftが西へ向かって大西洋に流れています。何れも、全長500㎞ほどありそうで、前者の水源の一つが帰途、Fezに向って北上するときに通過したN13号線のCol du Zadザド峠にまで遡っています。輸出農産物には、オレンジ、トマト、馬鈴薯、ワインなどが多いようです(計21%:2003)。
 高速A7号線を南下して、海抜「0m」的な土地のカサブランカから標高453mの高原的なマラケシュに近づくと小さな河川に沿ったオアシスが目につくようになりました。


~五つの王朝が都としたMarrākechマラケシュ~

 マラケシュにはカサブランカから高速道路で約220kmのところを3時間半(休憩を含む)を要しました。マラケシュとは、ベルベル語で「神の国」 (murt 'n akush) との意味だそうで、大きなモスクや神学校があります。
 マラケシュはモロッコの中央部で、「モロッコ4古都」であるフェズFèz、マラケシュ、ラバトRabat、メクネスMeknèsの一つであり、標高約450mに位置し、気候はステップ気候に属しています。人口は66万人から160万人まで諸説あり、現在300万人との説もあるようですが、70~80万人が町の様子から妥当なところでしょう。
 市街は東西2km、南北3kmの城壁に囲まれた旧市街(Medina)と、旧市街の西に広がる新市街から成っています。1泊後、先ず12世紀末にムワッヒド朝によって一度破壊された後に再建された「クトウビアKoutoubia」モスクに出向きました。高さ77mのミナレットはカサブランカのハッサン2世モスクの高さ200mのミナレットには及びませんが、12世紀に斯様に高層の煉瓦建築物が建造されたことが驚異でしょう。

アグノウ門
▲旧市街への出入口の1カ所・アグノウ門:マラケシュ

 続いて、12~13世紀のムワッヒド朝の王たちが宮殿に行く道中にあるアグノウ門Bab Agnaouから、北アフリカ最大級の「旧市街Medina」に入り、城壁も遺存したままのスーク(市場)を見学しました。多種の香辛料・菓子類・野菜・果物等々、多様な品物が並んでいました。
 次いで訪れた」、UNESCO世界文化遺産にもなっている、約400m四方の「ジャマ・エル・フナ広場Place Djama el Fna」には大道芸人も含めた多種多様なものが青空市場に並べられていました。これがモロッコ人のエネルギーが発露されているところでしょう。
 現王朝の先祖により16世紀末に建設され、化粧漆喰とアンダルシア様式模様で装飾は将に目を見張るばかりの「バヒア宮殿Palais de la Bahia」は、3人の王妃に設えた部屋の広さ・装飾の豪華さがやはり妃に依っていて異なっていて、最愛の王妃の名とともに遺存されているのが、人間の性と思われました。


乾燥山岳地帯を越えて砂漠地帯へ

~オート・アトラスHaut Atlas山脈~

 世界文化遺産の街・マラケシュから東南東へN9号線をバスで走ると雪を頂いたオート・アトラス山脈が前方に見えてきました。これはモロッコからチュニジアにかけて東西に伸びる褶曲山脈で、名称はギリシア神話の巨神アトラスに因んでいます。その東西の長さは2,400kmにも及び、西側が最も高く、東に行くにつれ低くなっています。その最高峰ツブカル山Jbel Toubkalは標高4,167mでモロッコ中南部にあります。

 
涸れ川wadi
▲涸れ川wadi:マラケシュ南郊

 途中、巨大な涸れ川wadiを雨季の増水を想像しながら渡りましたが、やがてラテライト化した山地が見えてきました。上部は岩石砂漠化したと見える茫漠と今にも崩れそうな風情です。草木の全く生えていない山肌をウネウネと上って辿り着いた標高2260mのテイシュカTichka峠は雪も無く、南国の風情で、マラケシュから約110kmの行程でした。



~アイト・ベン・ハッドウKsar Ait-Ben-Haddou(āyt bin ḥaddū)とカスバ街道Route des Kasbahs~

 N9号線の峠道を曲がりくねりながら下って約80㎞の幹線道路より少し北に入ったところに、1987年に世界文化遺産に登録されたアイト・ベン・ハッドウの日干し煉瓦造りの廃屋集落があります。これはハドゥ一族によって造られたもので、隊商交易の中継地として栄え、カスバKasbahsと呼ばれる邸宅が数多く建築された集落の一つで、「Ait」と付く集落はユダヤ系でもあるようです。

アイト・ベン・ハッドウ旧集落
▲クサル アイト・ベン・ハッドウ旧集落

 孤立集落のため、盗賊などの掠奪から身を守るため、城砦に匹敵する構造になっていて、敵の侵入を防ぐため集落への入口は一つで、通路は入り組み、1階は窓がなく換気口のみで、外壁には銃眼が施されていました。集落の最上部には篭城に備えて搭状の食料庫(テイグレムト兼見張り台)が遺存されています。現在、部族の人達は川向いに新しい集落を営み、生活しています。劃して、モロッコ3日目は暮れてゆき、ワルザザートに宿泊しました。僅か5~6万人が住む砂漠の町ですが、標高は1160mあり、多くの映画のロケ基地になった涼しい町です。マラケシュから170余㎞の距離です。
 モロッコ4日目は、標高1,160mのワルザザートから通称「カスバ街道」のN10号線を東北東に向かい、大小のカスバが次々と現れました。一方、街道の北方を眺めると、砂漠の向こうにオート・アトラス山脈が見え、砂漠と雪が何とも対照的で幻想的でさえありました。
 また、街道の両側のところどころに、オアシスがあり、そこにも日干し煉瓦造りの集落がありました。これらは将に砂漠景観の典型の一つでしょう。
 かような乾燥地帯を流れる川は、時として数百mに及ぶ断崖を造成しますが、標高1,342mのテイネリールTinerhirからN10号線と分かれて北上すること約15㎞のところに、その一つのトドラTodra峡谷があります。高さは300m以上あるとのことで、砂の塊のように見えますが、ロック・クライミングの聖地的存在だそうです。
 凡そ350㎞の「カスバ街道」のバス旅が終りに近いところで、かつて砂漠の中で使用されていた灌漑施設[カタラkhettara/khitara]の地下水路とそこから井戸によってその水を汲み上げる設備・遺跡を遺していて、観光客の見学に供していました。水路址は乾燥していて砂微塵が舞っているのが写真で判ります。
 オート・アトラス山脈の南側(サハラ砂漠側)では、草の少ない砂地で羊や黒色山羊を遊牧して飼育していることが街道の近くで見られましたが、北側では夏と冬で移牧して飼育しているそうです。モロッコ4日目は人口約2~3万人で、サハラ砂漠北西縁にある、タフィレートTafilaitオアシスにある町・エルフードErfoudに宿泊しました。

 

~メルズーガMerzouga大砂丘(サハラ砂漠)~

ヒトコブラクダ
▲手綱を離され自ら帰巣するヒトコブラクダ:メルズーガ大砂丘(サハラ砂漠)

 モロッコ5日目はエルフ-ドを早朝真っ暗な中を約40㎞南東のメルズーカに向ってランドクルーザーで走りました。砂漠の中の道なき道、車による「踏みつけ道」ですが、幹線道路N13号線の続きです。そこから、砂漠の日の出を観ようとヒトコブラクダに載って大砂丘の上まで移動しました。砂漠の上への日の出も美しかったですが、砂以外は何もないサハラ砂漠の北端からの眺望に暫し茫然の感深しでした。それでも、サハラ砂漠は90%が礫砂漠[レグ]・岩石砂漠[ハマダ]で、砂丘は10%以下とのことです。

エルフード~フェズ
▲(赤太線)・エルフード~フェズ(行程397㎞):「CARTE-ROUTIERE-DU-MAROC」

 朝食後、標高802mの高原・エルフードからフェズに向ってN13号線を北上する400㎞のドライヴが始まりました。転々と続くオアシスを離れた後は徐々に高度が上っていき、荒涼とした砂漠地形が続きます。オート・アトラス山脈の東南裾にある、3億年前は海底であったジズZiz川峡谷をうねうねと上って1,800~1,900mの高原に出て、標高1907mのタルゲムトTalghemt峠に至りました。そこから下った昼憩地ミデルトMideltは標高1,488mの高原で、エルフードから220㎞の「オート・アトラス山脈横断」であり、モロッコの乾燥地帯の巡検は終わりました。
 昼憩地ミデルトを出発すると、今度はモワイヤン・アトラスMoyen Atlas山脈の横断です。最高地点はザドZad峠の2049mで、周辺には少し残雪がありました。通過した1週間ほど前に降雪があったそうです。今回の巡検では天候に恵まれた結果、吹雪などで立ち往生することもなく、2日前のオート・アトラス山脈横断と併せて2度の高原横断も無事に通過できたことは非常に幸いでした。次の休憩地イフレンIfraneも人口1~2万人の標高1,650mのリゾート高原であり、その景観は欧州の都市に似ているものがありました。ここから古都フェスまでは50km余のところを1時間余りで着きました。


乾燥地帯から歴史的古都、ローマ遺跡へ

~古都フェズ Fèz/Fes~

 モロッコ到着6日目はフェズ市内の徒歩巡検でした。フェズは、アラビア語ではファースと表現し、またアラビア語の長音を無視することが多いためファスとも呼ばれますが、マリーン朝などイスラム王朝が首都とし、13~14世紀に発展して、多数のモスク、マドラサ、大学などが設置されました。人口は95~120~140万人の説があり(2004)、標高は550mに位置します。

スマリーン門
▲スマリーン門Bab Semarine:フェズ

 旧市街地「メディナMedina」は、町並みの構造から「迷宮」として知られており、旧来からの輸送手段であるロバがレンタル事業として制度化され、人や荷物運びの為に未だに活用されています。近くの丘の上に上って眺めた旧市街フェズ・エル・バリFez el Baliの眺望が、その迷路的街並・複雑さがよく見渡せました。
 歴史的には、8世紀末にベルベル人のムーレイ・イドリスMoulay Idriss 1世が建設したベルベール的な街「メデイナ・フェズ」と、その子・ムーレイ・イドリス2世が初の王朝イドリース朝の首都を対岸に建設した東方アラブ的な新町「ダル・アリヤー」が「フェズ」の始まりで、11~12世紀のムラーヴィトal-Murābiṭūn朝の時代に「フェズ」としてまとまりました。その後、13世紀後半にはマリーンal-Marīnīyūn朝が新フェズ(フェズ・ル・パリ)の王宮・宗教建築群を建設し、16世紀中葉にはサアド朝軍がフェズに入城し、同末にトルコの侵攻に備え城壁が強化されました。1912年のフランスとモロッコ王国との間で結ばれた「フェズ条約」によりモロッコの大部分がフランスの植民地となりました。再独立は1956年となりました。

路地と商店街
▲旧市街フェズ・エル・バリ路地と商店街:フェズ

 フェズは、現在三つの大きな区域に分けられていますが、UNESCO世界文化遺産に登録されている建造物もいくつかあります:
①旧フェズ「メデイナ」は「フェズ・ル・バリFèz el Bali」といわれていますが、9世紀初めにイドリース王朝により建設され、左岸カラウインKaraouiyne地区にはアラブ人、右岸アンダルースAndalous地区にはベルベル人とイベリア渡来人が居住してきました。
②新フェズ「フェズ・ル・ジェデイードFèz el Jèdid」は13世紀後半のマリーン朝時代に建設された王宮があります。また、旧ユダヤ人地区メッラハMellahもこの頃建設されましたが、フェズ・ル・ジェデイードに南接し、現在もその特徴ある住宅街は遺存され使用されています。そのユダヤ人のおおくはイスラエルの建国後は去っていったそうです。
③ニュータウンNouvelle Villeは、1912年以後のフランス保護領時代に建設されたものです。
 先ず、13世紀後半のマリーン朝時代に建設された旧王宮門を訪れ、その相変わらずの壮麗さに驚きつつ、アラブとユダヤの融合の象徴的門扉の取っ手に注目しながら、スマリーン門Bab Semarineから新市街に入り、次いで入り込んだ旧市街は、路地また路地の連続で、斯くもよく建て込んだものと感嘆しきりでした。現在もあちこちで城壁の遺存物が生活環境に嵌りこんだままになっています。

神学校
▲ブー・イナニヤー神学校:フェズ

 旧市街フェズ・エル・バリのほぼ中央にある「ムーレイ・イドリス廟Zaoiua Moulay Idriss」は、その緑屋根によって遠望的には目だっていましたが、地上では全く路地と雑踏の中に埋もれていることでも、フェズの街並みの異様さが判ったような気がしました。ブー・イナニヤー神学校Medersa Bouananiaは、14世紀のマリーン朝時代に建設されたものですが、木彫りポーチが通りを跨ぎ、「渋さ」で美を統一された、マリーン同朝建設では最大の神学校だそうで、化粧漆喰壁と緑タイルによる幾何学模様が建築美を静粛に示していました。

 午後には、モロッコの風俗の一つでもある「ミント・テイー・セレモニー」(茶会)をガイド氏の知人宅に赴き、体験させてもらった。20畳ほどの広さの居間兼客間のような部屋で真鍮製の大きな茶器を揃えて、65歳の主人自らが接待する、本格的な「茶会」の様式でしたが、かなりの砂糖を加えて飲むことが多いようです。
 夕食会を兼ねた晩方の民族舞踊ショウを1時間ほど鑑賞したが、男子ばかりによる農村の太鼓と踊りは豊作祈願と豊作感謝の喜びの踊りなのか、軽快な太鼓のリズムと強弱によりそのことを表しているようでしたが、太めの中高年女性一人による「ベリーダンス」はほんの10分ほどの全くお粗末な踊りで、後日、鑑賞したグラナダGranadaの「フラメンコ」とはその真剣さ・踊りの多様性等において比較にならないものでした。
 翌モロッコ到着7日目の行程は、雨中をフェズからローマ帝国属州時代の都市ヴォルビリスVolubilis遺跡、メクネスMeknèsを訪ねた後、高速道路を一路モロッコ北端の港町タンジェTangerへ向かった一日でありました。
 フェズから幹線道路N4号線、N13号線を経て約75㎞のところに、UNESCO世界文化遺産にも登録されている、ローマ帝国の勢力範囲の西端に位置した重要な「都市」であったヴォルビリスの遺跡があります。ここは3~4世紀にローマ帝国属州として発展し繁栄したようですが、結局は7世紀後半にイスラム王朝の支配下に入りました。当遺跡は19世紀後半から発掘され始めていますが、現在までに埋設見込み地域のごく一部しか発掘されていないそうです。遺存物の中では、細かいモザイク・タイル模様がその華麗さを維持していました。
 続いて訪れた雨中のメクネス‎Meknèsはわず僅か5分ばかりの休憩のため、現王朝の先祖の2代目国王が17世紀後半に首都として建設し、そのときに3代目国王と2代に跨って建設したアル・マンスール門とその周辺のみを観てメクネスを後にしました。

フェズ~
▲フェズ~タンジェ~ジブラルタル:「CARTE-ROUTIERE-DU-MAROC」

 メクネスからモロッコ北端の国際的港町タンジェへは、高速A2号線で首都ラバトRabat東方まで行き、R403号線で短絡して、ケニトラKénitraで再び高速道路(A1号線)に乗って、Tangerまで雨中の計約370㎞を走りました。翌日は、出国手続きをしてスペインへ渡りました。





【参考文献】
1.私市正年・他編:「モロッコを知るための65章」、明石書店、2007.
2.那谷敏郎:「紀行モロッコ史」、新潮社、1984.
3.地球の歩き方編集室:「地球の歩き方・E07モロッコ」、ダイヤモンド社、2012.
4.(地図)「Marokko」、freytag & berndt、2012.
5.(地図)「CARTE-ROUTIERE-DU-MAROC」、発行年不詳[道路状況から2012年以後発行].