第37回巡検
美作と備前の歴史的景観を訪ねて―城下町津山・鉱山町柵原の変貌と両宮山古墳―
【日 時】 2007年6月3日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)
【案内者】 赤木和郎 荒木俊之 池田 碩 河合保生 小原丈明 辰己 勝 森田 勝 山田 誠
【参加者】 49名
今回は古代から美作の中心地であった津山を中心に、吉井川中流の鉱山町柵原から備前地域最大の前方後円墳の両宮山古墳を訪ねます。
再開発が著しい岡山駅西口を出発したバスは、岡山ICから山陽道、岡山道、中国道を経由して一路津山に向かいます。北房JCまでは2000年の備北巡検と同じコースを通りますので、瀬戸内丘陵面・吉備高原面の高度差や高原上の土地利用などを観察することが出来ます。次に断層線に沿う中国道を走り、院庄ICで一般路に降り津山城下へ急ぎます。当地には院庄館跡(国指定)がありますが、今回は割愛します。
バスは国道179号線バイパスから城下へ向かいます。二宮地区にはこの道路沿いに郊外型ショッピングセンター「ウエストランド」(1982年立地)をはじめ、多くのロードサイドショップが新たに立地しています。城跡が間近となった田町で下車し、最初の見学地である武家屋敷跡に向かいます。ところで津山の呼称は、城跡の丘陵名であった鶴山(つるやま)が「つやま」となったことにより生まれたとされています。ちなみに城跡は鶴山公園となっています。この鶴山には嘉吉年間(1441~44)に山名忠政が築城したとされていますが、本格的な城下町の建設は、慶長8年(1603)に信濃川中島から森忠政が美作18万6,500石に封ぜられてからとなります。
▲旧出雲街道・津山城下町の町並み(西地区)
近世津山城は平山城で、南の吉井川、東の宮川、西の藺田川の問の沖積地に城下町が建設されました。東西に通る出雲街道を城下に引き込み、それに沿って商人町を配置し、それは宮川を越えて東にも伸びていました。職人町は今日の地名(細工町・紺屋町・鍛冶町など)からも分かるように西よりの街道裏手に配置され、武家屋敷はこれらの商人町・職人町の南北に、寺町は城下町の東西に置かれました。なお、森家は4代で断絶し、代わって元禄10年(1697)に松平氏が10万石で入封し、廃藩置県まで続きました。
さて、田町地区には現在では門が残る民家が数軒あるにすぎませんが、かつての武家屋敷の面影を偲ぶことができます。このためNHKドラマ「あぐり」のロケ地にもなりました。近くの藺田(いだ)川は城下町建設時に流路変更がなされ、西寺町には現在も多くの寺院が残っています。街路は旧城下町らしく、至るところにT字路やくいちがいの遠見遮断が見られます。町名には元魚町・材木町など商品に由来するもの、森氏の出身地である美濃町、津山周辺の商人出身地(福渡町・勝間田町・坪井町)など城下町特有の地名が残されています。
武家屋敷跡から職人町を経て、現在も美作最大の商業地となっている商人町へ徒歩にて進みます。地方都市としては立派なアーケードが目を惹く一方、人通りの少なさとシャッターを閉じた店舗が目立ちます。途中に旧市術地の活性化のために建設された再開発ビル「アルネ津山」があります。
鶴山通り付近で再びバスに乗車し、昼食・総会会場の津山鶴山ホテルに向かいます。昼時ですが、ホテルのすぐそばにある津山城東町並保存地区(国指定)の見学をします。出雲街道沿いの商人町で、幕末の洋学者箕作院甫旧宅(無料)や高瀬舟舟宿跡などがあり、ここも「あぐり」ロケ地となっています。この通りの東部には津山洋学資料館もありますが、時間の都合で見学できないのが残念です。
昼食後は、津山城跡(国指定)に向かいます。小倉城を模したといわれる津山城は、鶴山の最高所に本丸(147m)を構え、輪郭内に二の丸・三の丸を階段状に配置しています。このため城門から本丸までは、登路が屈曲を重ねており、思いのほか時間がかかります。明治6年(1873)の廃城後、一切の建物が消失していましたが、平成17年(2005)3月、築城400年を記念して備中櫓が復元されました。また、雄大な石垣からもかつての威容を想像することができます。
城跡の鶴山公園には約5,000本の桜があり、日本桜の名所100選として知られ、シーズンには多くの人出で賑わいます。城門近くには津山郷土資料館があり、荒天時はそちらの見学に変更するかも知れません。天守台からは周囲の景観がよく観察されます。北側にある大名庭園の衆楽園も訪れたい所ですが、ここからの展望に留めさせていただきます。なお公園内には、一部を除き柵がありませんので、周囲の観察の際にはくれぐれも足下にお気を付けください。
城跡の見学後、第2の見学地である柵原(現美咲町)に向かいます。途中の吉井川左岸段丘上には、美作国分寺があります。
バスは片上鉄道の吉ケ原駅跡に着きます。この駅は開業当時のままの状態で保存されており、構内には昭和30年頃の鉱山の様子や鉱山町の暮らしぶりを再現した柵原鉱山資料館があります。館内に入ったところに硫化鉄鉱の鉱石がおいてあり、手に取るとその重さに驚かされます。館内では係の方から鉱山の概要を説明していただきます。
柵原での本格的な鉱山開発は、明治33年(1900)の露天掘りによる褐鉄鉱の採掘にはじまりますが、褐鉄鉱の鉱床下部にある硫化鉄鉱の開発は、藤田組(同和鉱業を経て現DOWAホールディングス)が付近の鉱区を買収した大正年間以降となります。硫化鉱は硫酸原料として重要で、かつて柵原は東洋一の硫化鉄鉱の鉱山として知られていました。ところが脱硫装置により回収硫黄が利用されるようになったため需要が低下し、ついに平成3年(1991)に閉山となりました。
片上鉄道は鉱石運搬を目的として建設され、昭和6年(1931)に片上・柵原間が全通しました。しかしながらこの鉄道も鉱山と運命をともにし、惜しまれながら廃止されてしまいました。廃線跡はサイクリングロードとして整備されています。駅構内には片上鉄道で使用された車両が動態保存され、毎月第1日曜日には保存会により運転されていますので、うまくいくと運転風景も見学できます。また、乗車も可能ですが、200円必要です。
鉱山跡には最近まで柵原のランドマーク「中央立坑」が残っていましたが、維持費がかさむため解体され、駅構内にその一部が保存されています。なお旧坑道では野菜や茸が栽培され、スポーツ施設も設置されています。
続いて最後の見学地である赤磐市の両宮山古墳に向かいます。途中の飯岡(ゆうか)には、背後の山上に地元住民が発掘に参加したことで知られる月の輪古墳があります。部分開通している美作岡山道路を佐伯ICから熊山ICへと進み、旧山陽・熊山両町にまたがる大規模団地ネオポリス、続いて山陽団地を車窓から観察し、いよいよ両宮山古墳に到着します。
▲両宮山古墳
両宮山古墳(国指定)は備前地域最大の規模を有する前方後円墳で、畿内の大規模古墳から見ると物足りないかと思いますが、近年二重周濠を持つことがわかり、注目を集めるようになりました。現在は内濠のみしか残っていませんが、吉備地方の首長の権威を十分偲ぶことができます。古墳の西側には備前国分寺跡(国指定)があり、歴史公園として現在整備が進められています。
帰路の県道岡山吉井線は古代山陽道に沿っており、馬屋(まや)には駅家が置かれていました。旭川を渡り太陽が大分西へ傾いたころ、解散地の岡山駅に到着します。
岡山駅発着の関係から行程が少し長くなりますが、なかなか訪れにくい所でもありますので、多数の会員の皆様の参加をお待ちしております。
【河合保生】