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第36回巡検

高取から知られざる奥明日香の世界へ

【日 時】 2006年12月3日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)

【案内者】 池田 碩 出田和久 関口靖之 高橋誠一 辰己 勝 土平 博 野崎清孝 野間晴雄 矢野司郎 山近博義

【参加者】 81名


 奈良盆地は野外歴史地理学研究会が、たびたび巡検をおこなってきたフィールドです。また奈良盆地かとの印象をお持ちになるかもしれませんが、今回は、これまでとは一味ちがったコースを設定してみました。

 集合場所は近鉄の橿原神宮前駅です。この駅には正面口と東口・西口の3改札口がありますが、バスの乗車場所は西口にしました。おまちがえのないようにお願いします。なお大阪や和歌山方面からの方は、大阪市の天王寺からバスに乗車していただくのが便利かと思います。橿原までの車窓には都市化の著しい光景が展開します。

 橿原神宮前駅を出て、まず高取町へ向かいます。左手に見瀬丸山古墳を見ながら古代には下ツ道と呼ばれた道路を南下したのち、壺阪口から山を登って、最初の見学地点である壺阪寺に到着します。この寺は正式名を壺阪山平等王院南法華寺と言いますが、西国三十三ケ所第六番の札所としても知られます。また『枕草子』や『今昔物語集』などにも記され、お里・沢市の『壺阪霊験記』でも有名な寺です。1983年にインドから贈られた世界最大級の石仏・観音立像をはじめとして、古い伝統の中に新しい信仰拠点としてのセンスも漂います。本尊は眼に効験のある千手観音ですから、二上山・葛城山・金剛山や奈良盆地南部の平野部の風景の眺望も、より鮮明にお楽しみいただけると思います。

高取・土佐集落
▲高取・土佐集落

 壺阪寺からさらに登っていくと、中世山城の複雑な石塁を残す高取城があります。南北朝以来、越智・本多・植村氏の居城となった城です。ぜひとも見学したいのですが、大型バスではどうしても無理のようです。そこで高取城下町として栄えた土佐地区を味わっていただきます。この地は、古くは土佐街道と呼ばれた街道が通じ、奈良盆地と吉野地方を結ぶ交流地点として、また壺阪寺参詣客などで賑わいました。「札ノ辻」と呼ばれる地点で下車、長屋門の武家屋敷や格子の家が保存されている町並みを歩きます。高取は薬の町としても知られていますが、それに関連する展示施設などもあります。

 高取を出て明日香村へと向かいます。高松塚古墳、キトラ古墳、天武・持続天皇陵などの点在する丘陵地帯を経て、飛鳥川の稲淵の谷へ到着します。ここにある関西大学セミナーハウス(飛鳥文化研究所)が昼食会場です。昼食と総会ののちに、古代飛鳥の歴史地理に関する概括的な説明を聴いていただく予定です。また、時間と天候が許せば、南淵請安の墓地を見学したいと思います。南淵請安は小野妹子に従って高向玄理らとともに学問僧として入唐、帰国後に中大兄皇子や中臣鎌足らに大きな影響を与えた人です。

明日香・稲渕の棚田
▲明日香・稲渕の棚田

 そののちバスで、栢森集落まで飛鳥川をさかのぼります。この道は飛鳥と吉野上市を結ぶ芋ケ峠越えの歴史的な道路です。栢森で飛鳥川にかけられた勧請綱を見学、ふたたび飛鳥川を下って稲淵に戻りますが、稲淵にも飛鳥川にかけられた勧請綱があります。栢森の綱は雌綱、稲淵の綱は雄綱と呼ばれて、一つのセットとして意識されているものです。一方、飛鳥川の沿岸の傾斜地には見事な棚田が展開しています。村制50周年を迎えた明日香村は市町村合併を拒否して、独立した村として歩むことを決定しました。そのためもあって、古代史の故郷、万葉の郷としてだけではなく、様々な観光資源の開発にも努力しています。この棚田もその一環で、毎年、秋には案山子コンクールも開催されています。今年の8月には「稲淵山」の四股名を持った巨大な案山子も作られました。

 飛鳥の史跡についてはすでに多くの方がご承知だろうと思います。したがって今回は、最近発見された酒船石遺跡と亀形石造物のみに焦点を絞ることにしました。酒船石遺跡は古くから知られている酒船石の下方にある石垣遺構です。1992年に発見されましたが、『日本書紀』斉明天皇紀に記された「狂心の渠」を通じて石材が運ばれ、宮の東の山に築かれたものであるとの解釈が一般的です。なんのための施設であったのかということについては、山城遺構とする説、「両槻宮」に関連する遺構であるとする説などがあって決着がついていません。ただし後岡本宮の所在に関する手がかりとして、ひいてはその他の飛鳥の諸宮の所在を考える上でもきわめて重要な遺跡であると言えます。さらに下方の石敷き苑池遺構から2000年に発見された2m余の亀形石造物もその機能に関して諸説があります。道教に関連する施設であるという説のほかに、饗応のための施設であるという説などがあって、古代史へのロマンをかきたててくれます。現地でゆっくりと古代への想いをはせていただきたいところですが、12月の日暮れは早いものです。先を急ぐことにしましょう。

 次に訪れるのは、藤原宮跡です。真北に耳成山、南東に天香具山、南西に畝傍山のいわゆる大和三山に囲まれた地です。「大宮土壇」と呼ばれる土盛があるこの地区は、1934年からほば10年間におよぶ発掘調査によって大極殿や朝堂院が所在したことが判明していました。1966年以降の発掘調査によって藤原宮の範囲もほぼ確定されています。しかし、694年から710年までの都であった藤原京のプランは、従来は下ツ道・横大路・中ツ道・安部山田道に囲まれた南北約3.3キロ、東西約2.2キロと推定されてきましたが、より広い範囲と考えるいわゆる「大藤原京説」などが提示されています。

 最終の下車地点として、JR畝傍駅を予定しています。ここで荷物を持って下車していただきます。ここから近鉄大和八木駅までは約500mですが、この間、徒歩で最後の見学をします。まず「下ツ道」を少し北へ歩くと「横大路」との交差点につきます。この交差点が有名な八木の「札ノ辻」。高取の札ノ辻に次いでこの日は二つの札ノ辻に立つことになります。下ツ道は現在ごく狭い道路になっていますが、古代当時は道幅が40m以上あったと推定されています。同様に横大路もかつては40m前後の幅を持つ計画道路であったことを、発掘調査結果だけでなく今も残る地割によって実感していただきたいと思います。

 本来ですと近くにある今井寺内町などもまわりたいところですが、そろそろあたりも薄暗くなってきました。恒例の忘年会を八木の町で開催しますので、ふるってご参加ください。大和八木駅に近い国道24号線沿いですから電車の時間にあわせての参加が可能です。

【高橋誠一】


巡検報告

09:00 天王寺公園南入口集合、天王寺集合人数56名。山田会長より挨拶、説明者紹介。バス2台に分乗し出発
09:10 〔1号車〕辰己先生、正木先生、関口先生より天王寺周辺の説明。〔2号車〕野間先生よりコースの説明。天王寺駅前に高層ビルが建設中。
09:16 文の里ランプから阪神高速へ入る。山近先生から大和川付け替え300年の説明を受け、車窓から大和川・生駒山・信貴山・二上の山並みの景観を確認する。
09:28 美原ジャンクションから南阪奈道に入る。河内ブドウの説明、明治期日本一位の産地となり、羽曳野・太子町に広がる。現在は生産量は減少しているが、山の南斜面を利用し生産が行われている。南阪奈道は、旧竹ノ内街道に沿って作られている。竹ノ内トンネル(1,450m)を抜け奈良県に入る。奈良盆地が遠望できる。當麻町から大和高田は菊の栽培が盛んである。現在は、大阪への通勤者の郊外型の住宅マンションの増加により、郊外型ショッピングセンターが建設され、農村景観が減少しているなど、奈良盆地南部の説明を受ける。
09:45 大和高田バイパスを降り、四条西交差点を右折し、橿原公園内を通過。橿原公園は、明治20年神武天皇を祭るために神武天皇陵の建設と共に作られる。そのため地域内にあった、旧被差別部落は強制的に移転させられた。
09:57 第二次集合地点の、橿原駅西口に到着。17名乗車。
10:04 橿原駅出発。壺阪寺に向かう。169号線に入る。大和の国は、盆地を「国中」・東の高原を「東山中」・生駒を「西山中」・宇陀を「奥」・吉野を南山と称し、奈良の人々の生活の中に現在も生きている。奈良の守護は興福寺が代わりにつとめる。中心の大乗院は後に一条院に分かれる。下ッ道・巨勢道等古代の道の説明。
10:20 壺阪寺到着。眼病に効く寺として信仰を集める。第二駐車場で下車。寺の説明を受けた後集合写真を撮る。集合まで自由散策。北の二上山がきれいに見える。
11:15 壺阪寺出発。高取に向かう。高取城は、中世の山城が近世まで続いためずらしい城下町で、南北朝から江戸時代にかけて何度も改修される。江戸時代は、2万5千石で植村氏が支配し、現在も、旧家老屋敷が植村氏の別宅となっている。植村氏は、現在飛鳥に住まわれている。昭和30年に最後の武士の子孫が城から降りてきた。
11:32 土佐到着。標高は140m、城は500mで約360mの標高差がある。土佐の由来は、600年代都作りのため土佐から来た職人集団が帰りの旅費が無く帰国できず、住み着いたと言われている。中世以降は、城の外郭集落として発達、街道が直線上に走り城下町の形態が独特である。高取の町は、また薬の町としても有名。石川医院の門は、城のこの門を移築。
12:05 土佐出発。池田先生説明、奈良盆地は南北で地形が全く異なる。南側は、花崗岩地形で、風化が進み小さな谷が存在する。朝鮮半島の地形に似ている。先人は、故郷の風景と照らし合わせここに住み着いたのか。飛鳥地域は水が少なく、吉野川分水が、江戸時代から計画されていたが、1972年に完成する。現在は農業用から生活用水へと利用変化が起きている。
12:15 関西大学飛鳥文化研究所到着。昼食、幕の内弁当ににゅうめんの吸い物。
13:00 総会。山田先生から来年度の巡検について説明。初参加者自己紹介。高松塚古墳第一発見者の松本先生が発見当時の感想を述べる。「天井の星座と人物像が印象深かった」【高橋先生ミニ講演】1.飛鳥に都市計画があったのか。2.藤原京の北限(横大路)について。〔有り〕・方格プランがあったのではないか。・基準線、都市計画があったのではないか。〔無し〕・考古学側は無し。・106m、88mの基準に乗らないと横大路の幅が問題視される。
13:45 研究所出発。南淵昭安墓見学。出田先生の説明「推古天皇16(608)年、遣隋使学僧として派遣される。640年に帰国し中大兄皇子や藤原鎌足に儒教を教える。没年不詳」
14:25 稲淵集落の入り口の雄縄を見学後、記念写真を振る。
14:55 稲淵集落出発。
15:05 酒船石到着。高橋先生の説明。標高106mにある方形の石で重要な石。その下の斜面から1994年明日香村職員により列石が発見される。朝鮮式山城ではない。日本書紀の斉明天皇の「たぶれこころのみぞ」と記載されたものではないか。石上から香具山・飛鳥へ大運河を作った跡か、「船200隻で石を運び東山に石垣を作る」記述がある。現在天理大学構内から運河の遺跡が発見されている。
15:44 飛鳥文化センター出発。天香具山の西側を通り藤原京跡へ向かう。途中バスが入れず国道から向かう。
16:05 藤原池手前で下車、徒歩で向かう。
16:15 藤原京跡到着。高橋先生から宮の解説。大宮土壇が都の中心で、第二次大戦前に発掘調査を行い、朝堂院の遺跡、遺物を発見。1960年代連絡道路建設計画により発掘調査を行い、藤原京の範囲が確定する。「岸説藤原京」(106m説)。・大藤原京説(平城京域と同じ広さ)。・大和三山に囲まれた範囲が藤原京(岸説)。学説の変遷についての説明があった。
16:51 出発
17:06 最終下車地点、八木駅南西側で全員下車。後札の辻へ、昔ながらの町並みを残す。横大路(東西)は、現在6m足らずだが、かつては幅36mであった。下ツ道との交差点地点「札の辻」に到着し説明を受ける。山田先生からの閉会の挨拶。「お疲れ様でした」解散後、懇親会参加者は会場の(かごの屋)へ徒歩で向かう。