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第33回巡検

京都府北部の歴史的都市を訪ねて

【日 時】 2005年5月29日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)

【案内者】 小泉邦彦 後野義弘 塩見弘之 関口靖之 辰己 勝 野間晴雄 森田 勝 矢野司郎 山田 誠 山脇正資

【参加者】 64名


 第33回目となる今回のニューFHG巡検は、京都府北部の3つの歴史的都市(舞鶴・綾部・福知山)を1日で訪れるという、やや欲張った企画を考えました。そのため今回は、集合場所・時間が「新大阪駅・午前8時30分」と、普段よりかなり早いことをお断りしておかなければなりません。ただ見学地点に近い京都府北部にお住まいの方の便宜を考慮し、綾部駅からのご参加も受け付けます。

グンゼ博物苑
▲グンゼ博物苑

 最初の見学先は、綾部の市街地の北部に広大な面積を占めるグンゼ本社工場の敷地内にあるグンゼ博物苑およびグンゼ記念館です。京都府北部のこの一帯(何鹿郡(いかるがぐん))では、かつては養蚕が行われていましたが、明治前半期までは必ずしも繭の質が良くなく、地元では何とかその改良を図るべく努力が重ねられました。その中心人物波多野鶴吉によって1896(明治29)年に創業された「郡是製糸」の名称には、この地方の地域振興を模索しようとする意図が込められていたのです。以後、この会社の社名や主力製品には大きな変化がありましたが、今日でも肌着や靴下の有力メーカーとしての地位を維持しています。これらの施設では、こうした歩みについて、原料、製品、製法、経営等の推移に関する展示を通して見学します。

 綾部には他にも、たとえば和紙製造で知られた黒谷地区など見学したい所がいくつかありますが、時間の都合で割愛し、舞鶴へと向かいます。途中ちょっと寄り道をして、由良川沿いの舞鶴市志高地区を通ります。昨年10月の台風23号による大雨で由良川が氾濫し、そのために観光バスが立ち往生した所です。由良川の危険性について、自然地理学的見地からの車中説明を予定しています。

 舞鶴は、中心市街地が西地区と東地区とに分かれ、両地区の間には約3kmの断絶があるという、特殊な都市形態を有しています。これは、この2地区がまったく異なる歴史的背景をもつことに由来しています。より古い歴史をもつのはJR西舞鶴駅を中心とする西地区で、ここは京極氏・牧野氏3.5万石の城下町兼港町として、江戸時代から栄えた所です。当時の地名は田辺でしたが、明治に入って山城国綴喜郡の田辺(現在の京田辺市)や紀州の田辺(現在の田辺市)との混同を避けるためとして、田辺城の別名であった舞鶴城にちなんで舞鶴と改名しました。城郭そのものは残っていませんが、一部の建物は復元されています。ただ残念なことに、城跡の舞鶴公園付近には大型バスが駐車できるスペースがないばかりか、城跡のすぐ横の道路は大型車の通行自体も禁止という悪条件のため、下車見学・車窓見学とも困難です。そのため西地区では、ここの近世以来のもう一つの機能であった港湾の諸施設を車窓から眺めるにとどめざるをえません。

 西地区と東地区の間にある山地の最高峰を五老岳と言いますが、ここの頂上までドライブウェーが設けられており、さらに山頂付近には五老スカイタワーと称する展望台や「かんぽの宿舞鶴」があります。ここで昼食・総会を予定しています。またご希望の方には展望台に上っていただく時間もとりたいと考えておりますが、実現できますかどうか。

 午後はまず舞鶴市の東地区を見学します。五老岳のドライブウェーから東地区に入るまでの間に、すでにこの地区の性格をよく物語る諸施設が車窓の左右に展開するはずです。それは、ここが20世紀初頭以来100年余りにわたって、日本海軍から海上自衛隊へと(戦後数年間の不連続はあったものの)続く海軍軍港(自衛隊になってからはこういう用語は使われないはずですが、何か適切な言換え語があるのでしょうか)であったことの景観的表現と言うべきものです。つまりこの地区は、1901(明治34)年に海軍の鎮守府が置かれたことから急速に都市化が進んだ所なのです。1938(昭和13)年に東舞鶴市として市制を施行しました(西地区は舞鶴市として同時に市制施行)が、おそらくは軍の方針で1943(昭和18)年に両市が合併したものです。海上自衛隊の敷地の一角には、海軍記念館(旧海軍機関学校講堂)があり、後の海軍元帥東郷平八郎が初代の鎮守府司令長官を務めたころの遺品などを見学できるのですが、大人数での見学は難しそうで、今回は割愛します。

 東地区で初めに下車見学するのは、舞鶴市役所の隣接地にある市政記念館です。赤レンガの風格ある建物ですが、付近に何棟かある類似のレンガ造り建造物と同様、海軍の武器庫等として明治30年代に建てられたものです。2階に舞鶴市の歴史をわかりやすく紹介した常設展示がありますので、そこを中心に、周辺の倉庫群を含めて見学します。

舞鶴港引揚桟橋
▲舞鶴港引揚桟橋(一番手前)

 海上自衛隊の艦船が浮かぶ舞鶴湾に沿って、しばらくバスを進めます。ここでも自衛隊の施設や、旧軍港都市転換法等に基づく工場誘致により建設された工場などを目にすることができるでしょう。舞鶴での最後の下車見学地は舞鶴引揚記念館です。引揚げは、若い方々にとっては単なる歴史上のひとこまにしかすぎないのかもしれませんが、敗戦直後に生まれた私のような世代の者にとって、舞鶴港への引揚げは小学校高学年のころまで続いた出来事であり、とくに身近に引揚者がいたというわけではない私も、ラジオや新聞を通じて、同時代の出来事として記憶に焼き付いています。引揚記念館では、戦後10年以上にわたって行われた引揚げ事業とシベリアなどでの抑留生活の実態を、多彩な資料で紹介しています。付近には小公園が設けられ、モニュメントもいくつか建てられていますが、引揚者が祖国での最初の数日を過ごした建物などは、高度成長期に行われた木材工業団地の造成によって跡形もなくなっています。

 舞鶴を後にし、舞鶴自動車道を通って福知山に向かいます。福知山では、限られた時間の中、福知山城を見学します。明智光秀ゆかりの城で、また近世には朽木氏3.6万石の居城であった所ですが、天守閣は昭和末期の再建です。天守閣内部が郷土資料館になっていますので、そこを見学し、さらに最上階から市内を展望しましょう。

 福知山での見学は時間の関係でお城だけにとどめ、午後5時ごろに福知山駅前で一次解散をします。京都方面へお急ぎの方は、ここで下車されると京都にかなり早く着けるはずです。その他の方は、往路と同じく舞鶴自動車道・中国自動車道を通って大阪まで戻ります。ただし新御堂筋の渋滞を懸念し、千里中央での解散と致します。

 今回はニューFHGとしてはもちろん初めてのコースであり、また日ごろ京阪神方面からは出かけるチャンスの少ない地域かと思われます。ふるってご参加ください。

【山田 誠】


巡検報告

08:30 新大阪駅1階団体待合室前に一次参加者46名が集合。山田会長より挨拶。
08:40 観光バス2台に分乗し出発。1号車では小泉・森田両先生より新御堂筋沿いの町並、北大阪急行の敷設、千里ニュータウンの現状の説明あり。続いて中国道に沿う宝塚の宅地開発、名塩の和紙、三田の水問題、吉川の溜池等々の説明。
09:56 舞鶴道を快走し、六人部のPAで約10分間休憩。山脇先生より長田野段丘面の話。
10:0 綾部駅北口に二次参加者18名が集合。まもなく2号車が駅前に到着。乗車後すぐ発車。
10:25 グンゼ博物苑に1・2号車とも到着。山田会長より改めて挨拶があり、案内者が紹介される。社員の方より創立百年を記念して1996年に開設された等の説明。繭蔵3棟を改造した展示場と旧本社の記念館を見学。
11:25 博物苑を出発。2号車では塩見先生から地元綾部の人脈等々の、1号車では野間先生から綾部の養蚕・製糸の説明あり。京都縦貫道の近江舞鶴ICから由良川沿いに北上。
11:55 2004年10月20日の23号台風によるバス水没現場をゆっくり通過する。辰己先生、山脇先生がそれぞれの車内で熱弁を振う。この後、田辺城下町・舞鶴の地名・旧舞鶴鎮守府などの説明が矢野、山田、小泉、森田の各先生方からあった。
12:20 山道を登り五老岳のカンポの宿に到着。舞鶴湾を望みながら昼食・総会を行う。その後、半数近い人が近くの展望台に向かう。
13:15 五老岳を出発。舞鶴出身の後野先生や山田先生、小泉先生の軍港の話を聞きつつ、自衛隊の艦船、明治末の赤レンガ倉庫群を目にする。
13:35 赤煉瓦の市政記念館に着く。ナホトカとは姉妹都市とか、そのためか中古車を漁るロシア人が多いそうだ。見学は適当にしてコーヒーを楽しむ人もいた。
14:20 東舞鶴の通り名の由来、旧軍用地の平和利用、海自教育隊、引揚港の話を聞きながら約10分間の乗車で、引揚記念館に着く。ここは2度目という人も数名いたが、その後の展示の整備・工夫に関心を示されていた。大半の人が桟橋の見える丘に登った。
15:05 引揚記念館を出発。1号車では塩見先生から火力発電所、舞鶴の自然について、関口先生から東西舞鶴の発展の経緯について、2号車では小泉・森田両先生から海軍の跡地利用、海軍のカレーや肉ジャガ、自衛隊ヘリポートとキリンビール工場の関係について説明有り。舞鶴道を福知山へ向かう。矢野・山田両先生より福知山の歴史や発展について、森田先生より福知山城について説明がある。
15:55 福知山城に到着。元気をふり絞って坂道を本丸へ。今日3度目の記念撮影の後、天守閣に登る。由良川と城の位置関係がよくわかる。
16:44 山田会長からの閉会の挨拶の後、乗車し、5分で福知山駅。ここで一次解散。駅から一路、大阪へ向かう。1号車では日ごろ寡黙な小泉先生が熱弁を振るい、沿道の自然から交通、町村合併、都市化などを説明された。