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第6回巡検

飛鳥・吉野から大宇陀へ―古代の大和と伝統産業―

【日 時】 1992年5月31日(日) 巡検ルート地図(別窓で開きます)

【案内者】 樋口節夫 伊達宗泰 野崎清孝 池田 碩 野間晴雄 関口靖之

 

 会員諸兄から、はやく歴史の宝庫「南大和」を訪ねたいとの要望がありましたが、今回(第6回)でようやく実現できることになりました。御当地の伊達、野崎、千田、池田(順不同)の4会員にお世話になり、5月の1日を橿原、明日香、吉野、宇陀、桜井のコースで巡検することになります。交通事情から集合の場は橿原神宮駅前、解散は八木駅前としました。

 集合地点の橿原は、建国の聖地、神武紀元2600年(1940〔昭和15〕年)を記念し、この地を顕彰する諸事業が当時展開され、全国から建国奉仕隊が続々と集まりました。私ども青少年時代の思い出の地であります。1936(昭和11)年にはじまった「唐古」遺跡の発掘作業は、今はなき末永雅雄博士や藤岡謙二郎博士等が大活躍なされた研究の大舞台でありました。近くの橿原公苑、同考古学研究所、同付設博物館、橿原神宮等々を考える時、当時を偲ばずにはいられません。

 ついで、飛鳥の地に出て、「博物館」を訪ね、館内で南大和一円の歴史地理学の一端を概観したいと思っています。ここでは、耳成山・畝傍山・天香久山の三点を確認のうえ、藤原宮、高取城跡、石舞台、川原寺址、飛鳥寺址、定林寺址・・・のほか、有名・無名の古墳についての説明をうけたいと思っています。

 ここから、吉野地方へと南下することにしていますが、吉野については、『河谷の歴史地理』の時代、両年度にわたり、故主幹先生のもと多くの諸兄が流域の各地で資料採集に汗を流した思い出の地であります。吉野街道、高野街道、吉野葛、吉野皇居、吉野漆器、「吉野山」、吉野林業など、研究の分野は多岐にわたりました。当日は時間の関係から、「吉野山」(南朝の史跡、1924指定)の対岸上市(旧市場町、吉野杉集散地)から、上流部の「宮滝」(1930~38(昭和5~13)年調査、縄文から弥生文化まで)遺跡を見学し、津風呂湖(県中央部の自然公園)を望見しながら、「吉野・熊野特定地域総合開発事業」の実際を把握したいと思っています。

 帰路には、大宇陀町に入ります。その中心町松山は元禄時代まで織田氏の城下町。「吉野くず」の集散地です。松山西口関門(史跡)、森野旧楽園(同)が所在します。道中では竜門(りゅうもん)山地南東斜面と宇陀山地西部の地形や、谷筋における仏教信仰の伝承なとについて説明をうけることになっています。終着に近い桜井市一円は奈良県中北部の観光と木材集散の都市ですが、ともあれこの町は初瀬川の谷口にあたり、国道165号と166号が分岐する交通の要地で、「浜(はま)」とよばれる木材市場と多くの製材工場が立地するほか、史跡になっている栗原寺跡、花山古墳、文珠院西古墳、山田寺跡など訪ねる歴史景観が多い町です。

 八木駅(近鉄)付近は橿原市の旧町で、盆地の中央部を南北に通じる古代の下津(しもつ)道と東西に通じる初瀬街道が交わる要地に発達した古い商業の町です。飛鳥川をへだてた「今井」と相対し、橿原市北部の中心地区を形成しています。今も、その交通位置は桜井線(JR)畝傍駅、近鉄橿原線、同大阪線大和八木駅があり、重要性に変りなく駅前はなかなかの商業中心です。解散はこの地を選定しました。

 ともあれ、今回のコースは日本の歴史の宝庫とも呼ばれる地であり、市町史も橿原市史、高取町史、大和下市史、大宇陀町史、桜井町史が編集ずみです。当日は「奈良県の歴史(県史シリーズ)」や歴史散歩シリーズの一冊を持ちながら、投稿いただいた伊達、野崎、池田、千田(紙上参加)諸先生から臨地の説明をうけたいと思っています。多数の御参会を得て1日を有意義にすごしたいと思います。

【樋口節夫】

吉野から大宇陀ヘ~古代の大和と伝統産業~

 今回の主要見学地は橿原、明日香、吉野、大宇陀、桜井となっているが、テーマから推察すると主眼点は壬申の乱の最初に大海人皇子の歩んだコースと周辺の伝統産業の見学にあるように思われる。

 古代は飛鳥古京と吉野宮、東国への道という観点で結ばれる。特に宮滝遺跡(吉野町大字宮滝)は縄文・弥生・歴史時代の複合遺跡で国史跡に指定されているが、中でも吉野宮、吉野離宮などの所在が注目されたところである。現在1975(昭和50)年以降39次にわたる調査で、歴史時代の遺構は3期に分かれることが明かとなり、吉野宮、との関連が追求されつつある。

 壬申の乱の最初、「紀」の672(天武元)年6月条にみる「津振川に逮りて」に比定されている地も、すでに1961(昭和36)年津風呂湖の湖底に沈んだ。大海人皇子一行は「菟田の吾城」や「甘羅村」(大宇陀町)を通過して、宇陀の郡家(現榛原町)、名張をへて伊勢に向かうが、その間の動静をみると、飛鳥古京との関係位置・交通系が問題となる。現地に立てば実感できるのではないだろうか。

 ほそぼそと続いている「宇陀紙」「吉野葛」などの呼称は、その販売元や製造元の名をとっているので、宇陀のものに吉野や、吉野のものに宇陀などの名がつけられて呼ばれている。これらは古くからの吉野と宇陀の地の結び付きを示すもので、山村部にみる伝統産業の歴史を探ることが、吉野と宇陀の関係を把握できるのではと考える。山地と平野部との接点である桜井の地も、大きく変貌をとげている興味深い地域である。

 古代宮都の存在した奈良盆地東南部と、その後背地に視点をあてて単なる山間地域としてのみの存在であったのかどうか今回巡検の一つの目標に考えたい。

【伊達宗泰】

飛鳥と吉野

 奈良盆地の南に吉野がなかったら日本の歴史はちがっていたかもしれない、と私は常々思う。『古事記』の序文に、天武天皇のことを、「天の時未だ臻(いた)らずして、南山に蝉蛻(せんぜい)し、人事共給(そな)はりて、東国に虎歩(こほ)したまひき」と表現している。その意味は、天皇の位につく時期には至らないので、南山、即ち吉野に蝉のようにこっそり殻から抜け出ていたが、味方の陣容も整ったので、東国を虎のように堂々と進んでいった、ということである。吉野のことを南山といっているのだが、それは単に南にある山というだけではなく、より深い意味がこめられている。というのは、古来、中国では、南は天の方位を示すので、南山は天に最も近いところと考えられた。

 漢あるいは唐の長安城の場合、南に終南山があった。中南山とも呼ばれたのだが、王維の中南山の詩に「太乙(たいいつ)天都に近く、連山海隅に到る」とうたうように、天帝の太乙の坐す天の都に近いとされた。飛鳥あるいは藤原京においても南に吉野を配置することによって唐の長安城と同じパターンをつくったとみることができる。

 ところで、長安城の南の終南山に漢の武帝が、太乙宮をつくったというように、ここは神仙の地であった。吉野も『万葉集』や『懐風藻』にうたわれるように神仙郷であったのだが、問題は飛鳥に宮がおかれ、そのために吉野が南にある山なので神仙郷としてつくりあげられたのかということである。

 だが、私は飛鳥の時代以前から吉野は神仙郷であったと考えている。というのは『古事記』の雄略天皇の記事などから吉野が神仙の土地であることをうかがえるのだが、近年吉野の宮滝で雄略天皇の時代、即ち、5世紀末ごろの土器が出土しているので、その頃から神仙郷としての吉野が実在していたことを推定できるからだ。

 とすれば、飛鳥に宮がおかれる契機として蘇我氏や東漢氏(やまとのあや)の勢力のあった場所が選ばれたとすることは否定できないが、それに加えて南に神仙の地であり、南山にふさわしい吉野があったという条件も見落とすわけにはいかない。

 だから、このような吉野という土地がなかったら日本の歴史はちがっていたかもしれないと私は勝手な想像をめぐらすのである。

【千田 稔】

線としてみた宇陀の仏教信仰

 近世末になって西国三十三所めぐりや四国八十八所めぐりの霊場を摸した地方小霊場めぐりが、全国各地に数多く成立した。本霊場めぐりは経済的にも時間的にも負担になったから縮刷版ともいうべき地元の霊場めぐりが盛んになった。

 宇陀西国三十三所霊場は、宇陀盆地の大宇陀、菟田野、榛原、室生の4町村にわたっている。この霊場めぐりは、幕末近くなって庶民信仰とともに始まり、僅かな期間を経て消滅したと考えられる。したがって霊場所在地や巡礼路を正確に復原することは容易でない。大宇陀町西山の光明寺に始まり、守道の大念寺を経て、菟田野町域に入り、さらに榛原町域、室生村域を巡って大宇陀町嬉河原の観音寺に終わっている。霊場は、宗派を超えて真言宗、浄土宗、臨済宗、融通念仏宗の各派にわたるほか、無宗派の寺もある。

 河内の平野、大念仏寺を本山とする融通念仏宗は、河内と大和に限定されるローカルな宗派である。ローカル性のために布教の方法として檀徒確認の回在の慣行が始まったと考えられる。僧侶が檀家を巡って十一尊天得如来絵すなわち来迎絵を床の間にかかげて儀礼を行う。融通念仏宗は12世紀はじめ良忍を祖として開創されたといわれるが、近世への連続については明らかでない点が多い。

 宇陀郡、山辺郡の融通念仏宗寺院は、第12教区に含まれ、32寺院がある。現在、回在を行っているのは宗祐寺(萩原)、光明寺(西山)、大念寺(守道)、興善寺(都祁村白石)である。もっとも代表的な回在は、宗祐寺の4月の吉野回在である。中宮奥・上宮奥から三津峠を越え、三津に入り、いったん鹿路(桜井市)に入る。その後、吉野町域にもどり、西谷・志賀・香束・柳・北大野(三津茶屋)・牧・小名、大宇陀町域に入って栗野・田原・上片岡・東平尾・大熊・小和田さらに菟田野町域では松井・大貝を巡る。かつては10泊11日の行程であった。

【野崎清孝】

奈良県の気候と気象の特徴

 奈良県は、西南日本の太平洋側に位置しているため、気候は概して温暖である。しかしながら地形の差により、北部の奈良盆地を中心とする地方は、年間降水量の少ない「瀬戸内気候地区」に属するのに対し、南部は「表日本式気候地区」に入り、しかも大峯山地・台高山地・伯母子岳山地等1,300~1,600mの山地が連なる近畿の屋根にあたり降水量の極めて多い山岳気候を示すため、北部と南部ではまったく非対称的な気候区配分となっている。

 すなわち、北部の瀬戸内気候地区にあたる奈良盆地は、内陸型で年平均気温は15℃であるが、夏は蒸し暑く冬は底冷えのする体感的には厳しい気候である。年降水量は1,500mm以下と少なく、従来干ばつによる被害が多く水田耕作のためには多くの溜池を必要とした。

 一方南部の山岳地方は、我が国最多雨地の代表で年降水量は2,000~3,000mmである。特に大台ケ原では年平均気温6.5℃と低いが、降水量は4,800mmに達する。日最大降水量も1,011mm(1923〔大正12〕年)を記録している。さらに、南東部の太平洋斜面側に位置する下北山村付近になると、年平均気温が14.5℃位に上昇、同降水量も3,300mmと極めて高い値を示す。このため南部の降水量は、我が国平均の2倍から3倍に達しており、しかも降雨は6~7月の梅雨季と9~10月の台風季にかけて集中しており、冬季には少ない。

 このように奈良県の気候と気象の最も大きな特徴は、県域の北部と南部でその性格が極端に相異することである。

【池田 碩】


巡検報告

09:30 橿原神宮前駅集合。樋口会長より日程・案内者の紹介。
09:50 バス2台に分乗して出発。車中で大和・明日香村についての説明がある。
10:10 飛鳥資料館着、館内を自由見学。
10:40 同資料館出発。大和三山の地質、高取城の説明を聞きながら国道169号を南下、芦原峠(トンネル)を越え吉野へ入る。「吉野は藤岡先生が研究の情熱を注いだ場所で、『河谷の人文地理』として出版されている」という説明を樋口会長より聞き、大淀町下口を経て下市へ。
11:35 下市観光センターで下車、駐車場で野間先生より下市の町と割り箸についての説明を聞き、周辺の工場を急いで見学。
11:55 同センター出発。吉野川右岸を上流へ。車中で中央構造線についての説明等を聞き、バスを下車し、対岸の昼食・総会会場へ橋を渡る。
12:20 「平宗」着、昼食(柿の葉ずし、鮎ずしと茶がゆ) 総会(予算・名簿・次回巡検の予定・新参加者の紹介等・・・司会、山田先生)
13:20 バス乗車・出発。吉野山へ。
13:30 下千本駐車場着。徒歩で蔵王堂へ向かう。
13:50 蔵王堂着。記念写真撮影。
14:35 駐車場出発。南朝にまつわる話を聞きながら吉野川をさらに上流へ宮滝に向かう。
15:05 宮滝着、橋上で宮滝遺跡の説明を伊達先生よりうける。
15:30 宮滝発、宇陀盆地へ向かう。
16:05 大宇陀バスセンターで下車、松山の城下町の説明を桑原先生より聞き、森野薬草園見学。
16:50 大宇陀高校前でバスに乗車、大宇陀と桜井の歴史を聞きながら、桜井駅へ。
17:15 桜井駅着。解散。